平安時代の重要用語

藤原純友 
/ホームメイト

「藤原純友」(ふじわらのすみとも)は平安時代中期の貴族。朝廷に仕え、「伊予掾」(いよのじょう:現在の愛媛県へ遣わされた地方官僚)として、伊予周辺で略奪を繰り返した海賊を取り締まりました。しかし、のちに自ら海賊の首領となり、朝廷に対して反乱を引き起こします。(藤原純友の乱[ふじわらすみとものらん])。この反乱は、関東の「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)と同時期に起きたため、都の貴族達を震撼。事件が起こった年号から、藤原純友の乱と平将門の乱は「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)と呼ばれました。

平安時代の重要用語

藤原純友 
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「藤原純友」(ふじわらのすみとも)は平安時代中期の貴族。朝廷に仕え、「伊予掾」(いよのじょう:現在の愛媛県へ遣わされた地方官僚)として、伊予周辺で略奪を繰り返した海賊を取り締まりました。しかし、のちに自ら海賊の首領となり、朝廷に対して反乱を引き起こします。(藤原純友の乱[ふじわらすみとものらん])。この反乱は、関東の「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)と同時期に起きたため、都の貴族達を震撼。事件が起こった年号から、藤原純友の乱と平将門の乱は「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)と呼ばれました。

不遇の下級官僚時代

瀬戸内に海賊が誕生

古くから、日本における政治の中心は「畿内」(きない:現在の奈良県周辺地域)であり、外交・貿易の中心は、大陸に向けた玄関口・北九州でした。そのため、畿内と北九州を結ぶ瀬戸内海は、早い時期から海運業が発達。

この海運業を支えていたのが、瀬戸内海沿岸や島々に住む人々。複雑な潮の流れを熟知した彼らは巧みに船を操り、朝廷に納める税の運搬などを担いました。

ところが10世紀になって「荘園」(有力貴族・寺社の私有地)が増えると、朝廷に税を運搬する仕事が激減し、彼らも職を失ってしまいます。その結果、仕事を失った一部の集団が武装。この海域を進む舟を襲撃する、海賊行為を働くようになっていきました。

海賊団を投降させた交渉力

藤原純友

藤原純友

藤原純友の大叔父(おおおじ:祖父の兄弟)は、「摂関政治」(せっかんせいじ:摂政関白を藤原一族で独占して政権を握ること)を行った「藤原基経」(ふじわらのもとつね)。

しかし傍系に生まれ、さらに父「藤原良範」(ふじわらよしのり)を早く亡くした藤原純友は、中央での出世はかなわず、「大宰府」(だざいふ:現在の福岡県太宰府市に設置された地方行政機関)に勤務する下級貴族に過ぎませんでした。

ところが、瀬戸内の海賊を取り締まるため、藤原純友の叔父「藤原元名」(ふじわらのもとな)が遣わされると、同行した藤原純友は思わぬ手腕を発揮。936年(承平6年)、藤原純友は海賊と直接交渉を行い、2,500名余りを一斉に投降させたのです。

武力で鎮圧するのではなく、交渉で解決したところに、すでに当時より藤原純友が海賊達から信頼を得ていたことが分かります。また朝廷も、この藤原純友を高く評価していました。

藤原純友の乱

反乱を起こすも朝廷の説得に応じる

しかし、大宰府での任期が終わっても、藤原純友は朝廷へ戻ろうとしません。それどころか、伊予の「日振島」(ひぶりじま:愛媛県宇和島市)を拠点とし、自ら千艘(そう)の船団を率いて海賊の頭領になってしまったのです。

藤原純友がこうなった理由は、朝廷からの褒美が少なかった、出世できず朝廷を恨んだ、海賊達に同情したなど諸説あり、どれが本当かは不明。藤原純友の反乱の知らせを聞いた朝廷は、「紀淑人」(きのよしひと)を派遣。

朝廷は、藤原純友の行政官としての能力を高く買っていたため、武力で制圧するのではなく、藤原純友に十分な収入を与えて解決するという方法を採りました。これによって藤原純友は朝廷に降伏し、都での取り調べにも素直に応じます。

藤原純友の暴挙

しかし、都から伊予に戻ると再び海賊行為を開始。939年(天慶2年)12月、備前(現在の岡山県東南部)の地方官僚「藤原子高」(ふじわらのさねたか)が、藤原純友の悪行を訴えるため都へ出立。それを知った藤原純友は、摂津の「須岐駅」(すきえき:兵庫県芦屋市)にいた藤原子高を襲い、藤原子高の耳や鼻を削ぎ、妻を略奪、子どもまでも殺してしまったのです。

それにもかかわらず、朝廷は冠位を与えて手なずけようとしましたが、藤原純友はこれを拒否。940年(天慶3年)には、淡路(あわじ:現在の兵庫県淡路島)と讃岐(さぬき:現在の香川県)の「国府」(こくふ:地方政治の役所)を焼き払う暴挙に出ました。

博多湾の戦いで敗れる

そして941年(天慶4年)2月、朝廷はついに「追捕使」(ついぶし:反乱鎮圧の軍隊)として200艘の船団を派遣し、藤原純友の討伐を命じます。迎え撃つ藤原純友軍の船団は、約1,500艘。

数の上では藤原純友軍が圧倒的に有利でしたが、藤原純友の家臣「藤原恒利」(ふじわらのつねとし)が裏切って、藤原純友軍の動きをすべて追捕使軍に伝えていたため、藤原純友軍は大敗。同年5月、体制を立て直した藤原純友は、大宰府を襲撃して財宝を略奪。

すぐに追捕使軍が大宰府を包囲し、陸と海から激しく攻撃を仕掛けました(博多湾の戦い)。藤原純友軍の船は火をかけられて沈められ、残った船も追捕使軍に押収されてしまいます。そして追い詰められた藤原純友は、小舟で本拠・日振島に逃げ込みますが、同年6月には捕まり斬首されてしまいました。

瀬戸内海の英雄となった藤原純友

そのあと、瀬戸内沿岸の人々の多くは、藤原純友の死を信じようとせず、藤原純友は大船団を率いて南方へ逃げ延びたという噂が人々の間で語られました。瀬戸内海に暮らし、ときの権力者に従わずに生きてきた彼らにとって、藤原純友は英雄であったのです。

今日、「純友神社」(岡山県倉敷市)と「中野神社」(愛媛県新居浜市)が、藤原純友を祭神として祀り、海に生きた武人の誇りを伝えています。

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