室町時代の重要用語

銀閣寺 
/ホームメイト

「銀閣寺」(ぎんかくじ)は、京都の「東山」(ひがしやま)と呼ばれる場所に室町時代に建立された寺院で、正式名称を「慈照寺」(じしょうじ)と言います。銀閣は慈照寺の観音殿のことですが、もうひとつの京都の名刹「鹿苑寺」(ろくおんじ)の通称「金閣寺」(きんかくじ)に対して、この通称で呼ばれるようになったのです。慈照寺の建築や庭園には、日本の住まいや美意識の原点と言える様式や趣向を見ることができます。また、慈照寺を含む「古都京都の文化財」は、1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

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「銀閣寺」(ぎんかくじ)は、京都の「東山」(ひがしやま)と呼ばれる場所に室町時代に建立された寺院で、正式名称を「慈照寺」(じしょうじ)と言います。銀閣は慈照寺の観音殿のことですが、もうひとつの京都の名刹「鹿苑寺」(ろくおんじ)の通称「金閣寺」(きんかくじ)に対して、この通称で呼ばれるようになったのです。慈照寺の建築や庭園には、日本の住まいや美意識の原点と言える様式や趣向を見ることができます。また、慈照寺を含む「古都京都の文化財」は、1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

応仁の乱を招き、銀閣寺を築いた足利義政

銀閣寺の前身「東山殿」を造営

銀閣寺こと慈照寺(じしょうじ)は、京都の東に連なる山々のひとつ、如意ヶ嶽(にょいがたけ:京都府京都市左京区)のふもとにあります。この場所には平安時代中期に建立された寺院「浄土寺」(じょうどじ)がありましたが、室町幕府の第8代征夷大将軍足利義政」(あしかがよしまさ)の時代に起きた「応仁の乱」の戦火で焼け落ちてしまったのです。

応仁の乱は、足利義政の後継者争いに端を発した戦乱で、多くの有力武家が参戦し、1467年(応仁元年)から11年間も続きました。都は荒れ果て、求心力を失った足利義政は将軍職を退き、浄土寺の跡地に山荘「東山殿」(ひがしやまどの)を造営して、1483年(文明15年)に移り住みます。

趣向を凝らした隠居所から禅寺・鹿苑寺へ

慈照寺観音殿・銀閣

慈照寺観音殿・銀閣

東山殿には、足利義政の住まいである「常御所」(つねのごしょ)をはじめ、禅室「西指庵」(せいしあん)、仏像や位牌を安置する「東求堂」(とうぐどう) などが設けられました。

また、足利義政は東山殿の作庭にも凝り、錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園は「苔寺」の通称で知られる西芳寺(さいほうじ:京都市西京区)の庭を模したと言われています。

晩年の足利義政は、この東山殿で書画や茶の湯を楽しむ風流な隠居生活を送りました。1489年(長享3年/延徳元年)には観音殿・銀閣の造営に着手しますが、この年、足利義政は病に倒れ、銀閣の完成を待たずにこの世を去ります。

翌年の1490年(延徳2年)に、東山殿は足利義政の菩提を弔うために禅寺に改められ、当時すでに亡くなっていた禅宗の高僧「夢窓疎石」(むそうそせき)を名目上の開祖とし、足利義政の院号「慈照院殿」にちなんで慈照寺と名付けられました。

銀閣寺に見る禅宗文化

日本独自の美意識「詫び・寂び」が表れる

銀閣寺と並び称される金閣寺は、鹿苑寺(京都市北区)の舎利殿・金閣のことで、建物の内外に惜しみなく金箔を貼り付けた壮麗な建築です。

これに対して、銀閣の簡素で気品ある佇まいに銀箔は使われておらず、創建当初から建物の内外とも黒漆塗りだったことが分かっています。

金閣寺を築いた室町幕府の第3代征夷大将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)は室町幕府の最盛期を築いた人物で、贅を尽くした金閣寺は、足利義満の栄華の象徴でした。

一方、足利義政は、銀閣を含む東山殿を築くにあたり、禅僧達を相談相手にしており、その趣向には、禅の精神から生まれた美意識の「侘び」(わび/質素・不足のなかに見出す充足)や「寂び」(さび/静けさのなかに感じる美)が色濃く表れたのです。

枯山水

枯山水

銀閣寺の他にも、この時代には簡素な美しさを良しとする文化が多く生まれました。華美な茶道具を控え、静寂で質素な環境を重んじる茶道「侘茶」(わびちゃ)や、石と砂で山水を表す庭造り「枯山水」(かれさんすい)などです。

足利義満が権勢をふるった室町時代前期に花開いた文化を、金閣寺の地、京都の北山にちなんで「北山文化」と呼び、、銀閣寺に代表される室町時代中期以降に発展した文化を、銀閣寺の地、京都の東山にちなんで「東山文化」と言います。

現在の和室につながる「書院造」の始まり

書院造

書院造

平安時代の貴族や武士の住まいは板敷きで、畳は座ったり寝たりする場所にだけ置く物でした。また、部屋には仕切りがなく、御簾(みす)と呼ばれるすだれを吊るして空間を仕切っていたのです。こうした建築様式を「寝殿造」(しんでんづくり)と言います。

これに対して、室町時代に完成した銀閣寺では、東求堂の書斎・同仁斎(どうじんさい)に畳が敷き詰められ、障子で部屋を仕切り、違棚(ちがいだな)や付書院(つけしょいん)などが造られました。

こうした様式を「書院造」(しょいんづくり)と呼び、現在の和室の原型です。

銀閣寺の荒廃と復興

創建者・足利義政亡きあとの銀閣寺

足利義政の死後、禅寺・慈照寺となった銀閣寺は、「相国寺」(しょうこくじ:京都市上京区)の僧「宝処周財」(ほうしょしゅうざい)を住職に迎えました。次の住職「維山周嘉」(いざんしゅうか)は、足利将軍家の出身で、室町幕府第10代征夷大将軍「足利義稙」(あしかがよしたね)の弟でしたが、そのあとは足利将軍家の衰退とともに銀閣寺も困窮していきます。

1550年(天文19年)には銀閣寺の付近で、室町幕府第15代征夷大将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)と畿内の有力武将「三好長慶」(みよしながよし)が戦い、戦火で境内の建築は銀閣と東求堂を残して焼失しました。さらに1569年(永禄12年)に「織田信長」(おだのぶなが)が、足利義昭の住まい「二条御所」を築くにあたり、銀閣寺・庭園の名石を運び出したため庭園も荒廃していきます。

普請奉行・宮城豊盛による大改修

現在、多くの人を楽しませている銀閣寺の建築や庭園は、江戸時代の1615年(慶長20年)に、近江国(現在の滋賀県)の武将「宮城豊盛」(みやぎとよもり)が手がけた大改修の際に整えた物です。

宮城豊盛は、城攻めに必要な土木技術に長けた武将で、はじめは「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家臣でしたが、豊臣家が滅亡したのちは「徳川家康」(とくがわいえやす)に仕えました。

寺社普請も得意で、豊臣家の家臣だった時代には、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ:京都市左京区)阿弥陀堂の再建の普請奉行を務め、徳川家に仕えてからは銀閣寺の再建を任されたのです。

銀沙灘(手前)と向月台

銀沙灘(手前)と向月台

宮城豊盛は、方丈(ほうじょう:住職の住まい)を建て、持仏堂や観音殿を修理しました。また、現在の銀閣寺のシンボルになっている白砂の枯山水「銀沙灘」(ぎんしゃだん)と「向月台」(こうげつだい)も、このときの作庭です。

なお、1639年(寛永16年)には、宮城豊盛の孫・宮城豊嗣(みやぎがとよつぐ)も銀閣寺の修理・造営を行っています。

1951年(昭和26年)には、銀閣寺の池泉回遊式庭園が国の特別史跡・特別名勝の指定を受け、また、創建時からの建築である観音殿・銀閣と東求堂が国宝に指定されました。

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