「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)を開祖とする藤原氏は、常に天皇家と共に日本の政治を動かしてきました。平安時代以降は天皇の外祖父(天皇の母方の父)として権力を握り、「摂政・関白」(せっしょう・かんぱく)と言う重職を藤原一族が独占し続けます。なかでも「藤原道長」(ふじわらのみちなが)から始まる「御堂関白家」(みどうかんぱくけ)が絶大な権力を持ち、摂政・関白はこの家系から出すことが当たり前とされました。これが、藤原氏の中でも最高の家格とされる「摂家」(せっけ:摂関家[せっかんけ]とも)の始まりです。ところが、のちに摂家の中でも権力闘争が起こり、やがて藤原家は5つに分裂。こうして生まれた5つの家を「五摂家」(ごせっけ)と呼びました。
奈良時代、藤原家から南家・北家・式家・京家の4家が生まれますが、なかでも最も勢力を伸ばしたのが、天皇家と姻戚関係を結んで摂関政治を行った北家でした。
9世紀半ばに北家の「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)が摂政(幼い天皇に代わって政務を行う役職)に就くと、その子「藤原基経」(ふじわらのもとつね)は摂政に続いて関白(成人した天皇を補佐して政務を行う役職)に就任。その後も藤原氏北家が摂政や関白の地位を独占し政治の実権を握るようになります。
これを「摂関政治」と言い、10世紀末の藤原道長の頃が絶頂期でした。藤原道長は4人の娘をそれぞれ天皇に嫁がせることで、30年間にわたって権勢をふるうのです。その子「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)も50年にわたって摂政・関白として朝廷に君臨し続けました。
近衛基実が近衛大路に面した場所に住んでいたため、近衛家の名前が付きました。
1937年(昭和12年)に総理大臣となった「近衛文麿」(このえふみまろ)は、近衛家の末裔で、1993年(平成5年)に総理大臣になった「細川護熙」(ほそかわもりひろ)は、近衛文麿の孫にあたります。
鷹司兼平が鷹司室町(たかつかさむろまち)に住んでいたためにこの名がつきました。また所領のあった楊梅小路(やなぎうめこうじ)にちなんで「楊梅」(やなぎうめ)とも呼ばれました。
現在の当主は伊勢神宮(いせじんぐう:三重県伊勢市)の宮司を務めています。
九条兼実が所有していた九条の別名にちなみ、九条家は「陶化」(とうか)と呼ばれました。現在の当主は平安神宮の宮司を務めています。
二条良実が所有した二条の別名にちなみ、二条家は「銅駝」(どうだ)と呼ばれました。江戸時代、二条邸は京都御所の南側(現在の同志社女子大学今出川キャンパス)にあり、茶室は同志社大学に移築されて現存しています。
一条実経が所有した一条の別名にちなみ、一条家は「桃華」(とうか)と呼ばれました。一条家は室町時代に血脈が絶えましたが、二条家から「一条経嗣」(いちじょうつねつぐ)が養子に入って今日まで家名を残しています。
藤原氏には、摂家の他にも多くの支流がありました。例えば摂家に次ぐ家格を誇った「清華家」(せいがけ)は徳大寺・三条・西園寺など9家で構成され、この家系から「太政大臣」(だいじょうだいじん/だじょうだいじん:朝廷の最高職)が選ばれています。
また清華家の支流から「大臣家」(だいじんけ)が生まれ、「内大臣」(ないだいじん:太政大臣・右大臣・左大臣に次ぐ要職)がこの家から任じられました。この公家の序列はその後も継続し、明治時代になると摂家の人々は華族制度の最高位である「公爵」(こうしゃく)に、清華家の人々はそれに次ぐ「侯爵」(こうしゃく)の位を与えられています。