将軍と言うと、徳川将軍のように絶対的な権力者というイメージがありますが、鎌倉時代の将軍にはそこまでの権力はありません。鎌倉幕府の将軍は、全国の御家人(ごけにん)と契約で結ばれた、武士団のリーダーという位置づけでした。この契約が「御恩と奉公」です。これは幕府から土地の所有を認められる、あるいは新しく土地を与えられる代わりに、御家人が軍役を提供するというもので、平安時代に東国で始まり、鎌倉幕府が受け継いだ仕組みでした。しかし鎌倉時代後期、元寇(げんこう)によってこの契約関係は少しずつ効力を失い、幕府崩壊の原因となりました。
こうした武士の家では、主人である家長(かちょう)が家人(けにん)などの一族・郎党(ろうとう:家に仕える者)を従えて、周辺の武士同士で互いに争いを繰り返しながら連合体を作るようになりました。
特に東国(とうごく:関東地方一体)は広い平野で優れた馬を生産することができたため、機動力のある強力な武士団が育ちやすかったのです。この時代の武士団で、主人と従者を結び付けていたのが「御恩と奉公」という契約関係です。
御恩とは、主人が従者の土地の所有を認め、その土地をめぐって別の者との間に紛争が起きたときに従者の側に立って解決を図ることを意味します。一方で奉公とは、主人が戦うことになったとき、主人のために命をかけて戦うことです。
戦えない場合は、米などの経済的支援によって軍役の代わりとすることも可能でした。ただし、この契約関係は比較的ゆるやかで、従者は状況によっては複数の主人に仕えたり、頻繁に別の主人に仕えたりすることも珍しくありませんでした。
御家人でない武士が土地を守ってもらうために御家人になるには、まず自分の名前を書いた「名簿」(みょうぶ)を差し出し、将軍に「見参」(げざん:対面すること)する必要がありました。これで問題がないと、将軍から先祖代々の土地に対する「本領安堵」(ほんりょうあんど:土地の所有を保証すること)の書類が渡され、晴れて御家人に組み入れられます。
しかし西国の場合は守護(しゅご:その土地を統治するために幕府から遣わされた地方官)が名前を伝えるだけで御家人として認められる場合もありました。
御家人には、土地の所有を認めてもらったお返しとして、様々な奉公が求められました。平時であれば、鎌倉幕府の警固にあたる「鎌倉番役」(かまくらばんやく)や、京都の内裏(だいり:天皇が住み、儀式や執務を行う宮殿)を守る「京都大番役」(きょうとおおばんやく)など。また元(げん:当時の中国~ヨーロッパまで支配した強力な王朝)が日本に攻め込む可能性ができてからは、北九州沿岸を警備する「異国警固番役」(いこくけいごばんやく)、「長門警固番役」(ながとけいごばんやく)などもありました。
さらに幕府や内裏、寺社などの修築を行う「関東公事」(かんとうくじ)など、御家人には様々な義務が課せられます。そしてもうひとつ、御家人には重要な義務がありました。それは、ひとたび戦になれば、「いざ鎌倉」の合言葉と共に鎌倉殿のもとに駆け付けて加勢をすること。
このときの旅費や武器の調達・メンテナンスの費用は基本的に御家人の負担でしたから、御家人達の暮らしは決して楽ではありませんでした。その代わり、戦で活躍した者には褒美として新しい土地を与えられる「新恩給与」(しんおんきゅうよ)があったため、御家人達は命がけで戦ったのです。
やがて源頼朝から始まる源将軍家は3代で滅びました。そして幕府の最高権力者は北条氏(ほうじょうし:伊豆の有力氏族で、源頼朝を支援して平氏討伐に貢献した一族)に移りましたが、北条氏も絶対的君主にはならず、将軍を別に立て、自分達は将軍を補佐する「執権」(しっけん)という立場であり続けました。ここでも、武士の統制に使われたのが御恩と奉公という契約関係です。
しかし1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)、中国の元が2度にわたって日本に侵攻する元寇(げんこう)が起こります。このとき、進んだ武器と優れた戦法を持つ元軍に苦しめられ、幕府軍は大量の犠牲者を出しました。しかし九州の御家人の奮戦と奇跡的な台風襲来によって、元軍の撃退に成功します。ところが、問題はここから。国内の戦いでは戦に勝って新たな土地を手に入れると、手柄のある御家人に与えることができました。
しかし元軍を追い払っただけですから、新たな土地を手に入れた訳ではありません。ですから自分で費用を負担して必死に戦った御家人に対して十分な新恩給与を行うことができなかったのです。これによって御家人の暮らしはますます苦しくなり、御恩と奉公の関係も次第に崩壊していくことになったのです。