鎌倉幕府は、「源頼朝」(みなもとのよりとも)が開いた日本初の武家社会です。征夷大将軍を中心に支配が進みましたが、その内実は関東の御家人(ごけにん:幕府と主従契約を結んだ武士)達の合議政治でした。その証拠に、源頼朝が急死するとすぐに13人の御家人による合議体制が敷かれています。そののち、御家人の中でも最も権力を持っていた北条氏が、源頼朝亡きあとの幕府の最高権力者となって政治を行いました。しかし、いくら北条氏が力を持っていたと言っても、全国の御家人をまとめるには明確な「基準」が必要です。それも、平安時代までのような古い基準ではなく、武士の世にふさわしい新しい基準。そこで誕生したのが「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)です。
源頼朝は、朝廷が全国の荘園を管理するために置いた「地頭」(じとう)の任命権を持つ「日本国惣地頭」(にほんこくそうじとう)となることで、全国の土地の所有権が幕府にあることを全国に知らしめました。そして鎌倉幕府の御家人に対して土地の所有を認め、あるいは褒美として土地を与えることもありました。
しかし源頼朝が急死すると、土地をめぐる紛争が各地で起きるようになりました。このままではいけないと考えた「北条泰時」(ほうじょうやすとき)は、紛争の解決のためには、形骸化した律令に代わる新たな基準が必要だと考えました。
そこで徹底的に律令のことを学び、幕府の要人達と議論を重ねながら1232年(貞永元年)に完成させたのが御成敗式目です。これは完成した元号から「貞永式目」(じょうえいしきもく)とも呼ばれます。
北条泰時が御成敗式目で最も大切にしたのが「道理」でした。言い換えれば、これは武家社会における「健全な常識」です。
北条泰時は、弟への手紙の中で「強い者が勝ち、弱い者が負けるような不公平をなくし、身分の上下に関係なく、公正な裁判を行うためにつくったのが御成敗式目である」と、その目的を紹介しています。
また同じ手紙の中で、「律令という素晴らしい法律があることは知っている。しかし、関東武士は誰ひとりその存在を知らない。そんな武士達が安心して暮らしてほしいという道理に基づいて、私はこれをつくったのだ」と断言し、律令ではない新しい武士のための法律であることを明言しています。
御成敗式目は全部で51ヵ条から構成されていますが、武士の土地所有に関する紛争の解決のためにつくられたため、その内容はきわめて具体的でした。
例えば第7条では、源氏将軍から与えられた土地については、それ以前の所有者であっても訴訟を起こしてはならないということが決められていました。これは御家人の契約を幕府が保証するものであり、きわめて重要な項目です。つづく第8条では、たとえ土地を所有する権利を持っていても、20年間放置すると、その権利は無効であるとされました。実は、これこそが関東武士団が最も望むものだったのです。
権利がなくても、その土地で一生懸命に汗水ながして田畑を耕し、実績を挙げている者を正当な支配者と認める。このきわめて健全な理論こそ、北条泰時が目指した道理であり、鎌倉武士達はこの条文に大喜びしたのです。ちなみに一所懸命とは、鎌倉武士が命をかけて自分の土地を守ろうとしたことが語源だと言われます。
当時の人達にとって、土地の所有がどれほど重要であったかは、御成敗式目の第26条にあらわれています。
これは「御家人が土地を子供に相続し、将軍から証明書をもらっていたとしても、親の気が変わったら別の子供に相続できる」ことを定めたもので、「悔還」(くいがえし)と言います。
これは惣領(そうりょう:家長のこと)の権限を強化することで、御家人の土地が子供に分割相続されて家が困窮することを防ぐことが目的であったと考えられています。逆に言えば、当時は土地を子供に譲るということが大問題であり、それに関する紛争が多発していたために、この条文が設けられたとも考えられます。
世界的に見ても、一度譲渡したのに「気が変わった」という理由で取り返すことはできないということが原則ですから、この条文は御成敗式目の大きな特徴と言えます。
このように、御成敗式目は当時の武士のリアルな暮らしに根付いた、きわめて実用的な内容でした。また文章も一応は漢字で書かれているとはいえ、とても平易な日本語の文章になっており、北条泰時が誰でも読めるマニュアルを目指したということが分かります。
かつて朝廷貴族の手でつくられた数々の律令が、中国の律令のコピーであったことを考えると、北条泰時が道理というオリジナルの哲学を広めようとした御成敗式目は日本の法制史における画期的な出来事だったのです。その後、御成敗式目は鎌倉時代から室町時代まで長く効力を持ち続けることになります。
時代の実情に合わせて改訂されたときも、すべて「式目の追加」でした。それほど御成敗式目は武家達にとって重要な書物だったのです。