「八月十八日の政変」(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、1863年(文久3年)の同日、朝廷から7名の公家が追放された事件。これは当時の国論を二分していた「攘夷」(じょうい:外国との交渉を一切拒否し、外国船を排除するという思想)と、攘夷より前の「公武合体」(こうぶがったい:江戸幕府・朝廷が一体になって安定した政権を築き、欧米列強に対抗できる国をつくる)という2つの派閥間で起こったクーデターでした。この事件により、攘夷推進派の中心にいた長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)藩士達は大きなダメージを受け、その後数年間、地下に潜って京都で過激なテロ活動を繰り返すようになったのです。
1862年(文久2年)8月14日、長州藩は朝廷に対して、攘夷を行いたいので朝廷側の意見をまとめてほしいと要望。
朝廷では、もともと外国が嫌いであった121代「孝明天皇」(こうめいていんのう)の意志を尊重し、朝廷は攘夷を求めることを発表します。
10月12日、公家「三条実美」(さんじょうさねとみ)らが、勅使(ちょくし:天皇の使者)として江戸幕府に向かい、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)に対して攘夷を行うよう迫りました。
一度開国を決めてしまった方針を覆すことは、政権としてはありえませんが、まだ17歳だった徳川家茂は攘夷を行うと約束。
喜んだ長州藩の「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らは10月12日深夜、御殿山(ごてんやま:現在の東京都品川区)にあったイギリス公使館(こうしかん:大使館にあたる)を焼き討ちするなどの乱暴を働いています。
翌1863年(文久3年)3月4日、徳川家茂は京都に入り、孝明天皇に拝謁。その前に、公家・三条実美と会った徳川家茂は、三条実美から執拗に攘夷の期限を決めるよう要請され、4月23日と回答してしまいました。もちろん、これはその場しのぎの出まかせ。
その後、4月18日には、前年の1862年(文久2年)に起きた「生麦事件」(なまむぎじけん:大名行列を乱したイギリス人がその場で殺された事件)の報復のため、イギリス軍が大坂湾を目指しているという噂を理由に、徳川家茂が大坂(おおさか:現在の大阪府大阪市)へ向かおうとしますが、これを聞いた孝明天皇が激怒。攘夷開始の直前に何をしているのかと徳川家茂を問い詰めます。
孝明天皇の怒りに対し、震え上がってしまった江戸幕府の重臣らは会議を行い、5月10日には間違いなく攘夷を開始すると、朝廷に約束してしまったのです。
これが江戸幕府による攘夷の許可と認識した長州藩は、5月10日に下関海峡を通過する外国船に対して無差別攻撃を開始。まずアメリカ汽船を攻撃し、23日にはフランス艦、26日にはオランダ艦を砲撃。いずれも相手に戦意はなく、相手の船が逃げ出しただけでしたが、それで長州藩は大満足でした。
しかし威勢が良かったのはここまで。6月1日、アメリカ軍艦「ワイオミング号」が関門海峡(かんもんかいきょう:本州・九州を隔てる海峡)に現れ、長州藩の艦船3隻をたちまち撃沈し、陸の砲台も壊滅。6月5日にはフランス軍艦「タンクレード号」、「セミラミス号」が関門海峡入口の前田台場(だいば:砲台を設置した要塞)を砲撃し、周囲の前田村(現在の山口県下関市前田)も焼き払ってしまいました(馬関攘夷戦[ばかんじょういせん])。
一方、イギリスは生麦事件の報復として、6月22日に「ユーリアラス号」以下7隻の軍艦を鹿児島へ派遣し、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)と和平交渉が決裂した7月2日に鹿児島への砲撃を開始。こちらはイギリス軍にも多大な被害が出て、両者痛み分けという結果になりました(薩英戦争)。
2つの戦いの知らせを聞いた孝明天皇は喜び、長州藩には6月6日に使者を派遣して激励し、7月12日には薩摩藩に孝明天皇が攘夷を喜んでいるという知らせが薩摩藩・前藩主「島津久光」(しまづひさみつ)のもとに送られています。
ところがその3日前の7月9日、島津久光のもとへ前関白「近衛忠煕」(このえただひろ)、「近衛忠房」(このえただふさ)から届けられた手紙は、まったく異なる事実を伝えていました。孝明天皇が、攘夷派の活躍を喜んでいるという話は、尊王攘夷派の急先鋒である久留米藩(くるめはん:現在の福岡県久留米市)藩士「真木和泉」(まきいずみ)と長州藩士達が企てたデマだと言うのです。
真木和泉は、鎌倉幕府を倒し、朝廷のために戦った武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)の生まれ変わりと称えられた実力者。実のところ、孝明天皇は攘夷には賛成でしたが、陰で真木和泉と長州藩が攘夷だけでなく倒幕を画策していることを知り、真木和泉・長州藩に対し深い不審感を抱いていました。
イギリスの軍事力を目にした直後の島津久光は、攘夷がそれほど簡単ではないことを認識していたため、攘夷の前に江戸幕府と朝廷が一体となった強い国づくりを進める「公武合体」が絶対に必要だと考えるようになっていました。
そこで8月13日、同じ考えを持つ会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)藩主の「松平容保」(まつだいらかたもり)に声をかけ、近頃の叡旨(えいし:天皇の言葉)は偽物であるから、ともに奸臣(かんしん:悪だくみをする家臣)を排除しようと提案。
松平容保はすぐ応じ、ここに「薩会同盟」(さっかいどうめい)が成立。朝廷の中でも公武合体派であった「中川宮朝彦親王」(なかがわのみやあさひこしんのう)が、それを孝明天皇に知らせると、孝明天皇は8月17日の夕刻、「武力をもって国家の害を除くべし」という宸翰(しんかん:天皇による書)を中川宮朝彦親王に授けました。
翌8月18日早朝、中川宮朝彦親王は公家達を集め、「天皇は、攘夷は時期尚早だとお考えだが、近頃長州藩に乗せられ、天皇のお言葉ではないのに、あたかも天皇のお言葉のようにふるまう者がいる。特に三条実美をはじめとする(急進的な攘夷派の)者どもは、これから取り調べを行うため、まず外出と他人との面会を禁ずる」と話します。
そして御所のすべての門を閉じ、薩摩藩・会津藩の兵士が固めました。これは公武合体派の薩摩・会津両藩が、長州藩を中心とする尊王攘夷派公家の動きを封殺したクーデターでした。発生した日付から「文久三年八月十八日の政変」、あるいは「八・一八政変」と呼びます。
長州藩は憤慨し、2,000名を超す長州藩士が集結。死の覚悟を示す白装束を身にまとい、開戦をも辞さぬことを朝廷に見せ付けます。
翌8月19日、尊王攘夷派の公家・三条実美をはじめ「三条西季知」(さんじょうにしすえとも)、「四条隆謌」(しじょうたかうた)、「東久世通禧」(ひがしくぜみちとみ)、「壬生基修」(みぶもとおさ)、「錦小路頼徳」(にしきこうじよりのり)、「澤宣嘉」(さわのぶよし)ら7名の公卿(くぎょう:朝廷の最高幹部)が、朝廷を追放されて、長州藩へ逃れました。これがいわゆる「七卿落ち」(しちきょうおち)です。
ちなみに、この政変で初陣を飾ったのが「芹沢鴨」(せりざわかも)、「近藤勇」(こんどういさみ)を中心とする、会津藩お預かりの浪士集団「壬生村浪士組」(みぶむらろうしぐみ)。松平容保は彼らの働きぶりを称え、「新選組」(しんせんぐみ)という名を与え、京都の市中見廻りを任せることにしたのです。
この日からしばらく、公武合体派が主流となり、尊王攘夷派の長州藩はしばらく忍耐の時期を過ごすこととなりました。
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