「旗本」(はたもと)とは、江戸幕府将軍直属の家臣団のなかで、知行高(ちぎょうだか:領地で穫れる米の量)が1万石未満で、江戸幕府将軍に拝謁(はいえつ:位の高い人に会うこと)できる「御目見」(おめみえ)が許された者のことです。江戸幕府に直属する常備軍の中核となった人々でした。俗に「旗本八万騎」(はたもとはちまんき:旗本の総人数は80,000人の意味)という言葉がありますが、実際の旗本の人数は5,200人程度で、80,000人という数字は、旗本が召し抱えていた家来も含めた数だと言われます。
旗本制度が整備されたのは江戸幕府第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の頃。1625年(寛永2年)、知行地に住んでいた旗本に江戸屋敷が与えられ、彼らが江戸に移り住んだことで旗本が江戸の治安維持を図るという仕組みが完成しました。
この時期に旗本になった人々は、「徳川家康」(とくがわいえやす)が三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の小大名だった頃から仕えてきた「譜代」(ふだい)と呼ばれる家臣一族の次男・三男がほとんど。
他にも徳川家が天下統一を果たした過程で服属した諸国の武士団、さらに有力大名の分家などで構成されていたと記録されています。
また新しい江戸幕府将軍が就任すると、その江戸幕府将軍が、以前領主だった土地の家臣団が旗本に登用されるケースも珍しくありませんでした。
江戸幕府第5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の時代には、徳川綱吉が藩主であった館林藩(たてばやしはん:現在の群馬県館林市)の家臣団が、また江戸幕府第6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)の頃には甲府藩(こうふはん:現在の山梨県甲府市)の家臣団、そして江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の頃には、紀州藩(きしゅうはん:現在の和歌山県和歌山市)の家臣団が旗本になっています。
また、徳川綱吉は学芸に秀でた者を旗本として登用する「御成」(おなり)を盛んに行い、この時期に儒学者・医師・絵師・連歌師(れんがし:連歌を専門に詠む人)なども旗本の仲間入りを果たしました。
旗本は俸禄(ほうろく:幕府から支給される米の量)で3つの家柄に分けられ、それぞれ決まった職務が与えられました。最も高い家柄が「両番筋」(りょうばんすじ)、次が「大番筋」(おおばんすじ)、最後が「小十人筋」(こじゅうにんすじ)です。
両番筋は、「江戸城」(えどじょう:東京都千代田区)の城門前の警固、江戸市中の巡査を担当する「書院番」(しょいんばん)、または江戸幕府将軍が出掛けるときに扈従(こしょう:付き従うこと)して身辺警護を担当する「小姓組」(こしょうぐみ)の任に就きました。
大番筋とは江戸城二の丸や西の丸の警固、「大坂城」(おおさかじょう:大阪府大阪市)・「二条城」(にじょうじょう:京都府京都市)など、江戸幕府直轄の城の警固。変わったところでは、江戸幕府将軍に献上する、宇治茶の運送を警固した「宇治御茶壺御用」(うじおちゃつぼごよう)も大番筋の職務のひとつでした。
常時600名ほどの旗本で構成された大番筋は、江戸将軍直轄の軍における精鋭であったと言われます。
小十人筋の御家人は、歩兵として江戸幕府将軍の馬廻(うままわり)警固を担当しました。
基本的に、旗本は家柄によって所属する番方(職務)が決まり、自由に仕事を選ぶことはできませんでした。
最初は江戸城や将軍の警固が中心でしたが、ここで認められると、「町奉行」(まちぶぎょう)、「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)といった江戸幕府の行政、司法を担う役に組み込まれることも。ただし、番士(江戸城の警護、役所の警護役)として一生を終える者も珍しくなかったと言われます。