「平安京」(へいあんきょう)は、794年(延暦13年)、第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)が山城国(やましろのくに)愛宕・葛野の両郡(現在の京都府京都市)にまたがる地に、「長岡京」(ながおかきょう:現在の長岡京市)から遷都(せんと:都を移すこと)した都。広義では、1869年(明治2年)に政府機関が東京へ移るまでの約1,100年にわたって日本の首都であったとされています。一般的には、鎌倉幕府成立までの約390年間、平安京が政治上の中心であったことから、平安時代の都として考えられている場所です。なお、平安という時代区分としては、長岡京を含めた約400年間とされています。
781年(天応元年)に即位した桓武天皇は、まず784年(延暦3年)に、「平城京」(へいじょうきょう:奈良県奈良市)から長岡京へ遷都。
これは人心の一新と政治改革を目的としたものでした。奈良時代後半になると、「律令国家」(りつりょうこっか:法律に基づいた官僚機構による統治)の仕組みが壊れ始め、貴族や僧侶の権力が増大する現象が起こっていました。
この解決には仏教勢力が強い平城京を離れ、新しい心で政治を行うことが良いと、公卿「藤原種継」(ふじわらのたねつぐ)が桓武天皇に進言。
これにより長岡京遷都へと動くのですが、その長岡京の整備途中、遷都に反対する者達によって藤原種継が暗殺。また、伝染病の流行、怨霊の噂が囁かれるなど、長岡京遷都には不穏な空気が流れるばかり。結果、桓武天皇は11年という短さで長岡京での整備に見切りを付け、平安京への遷都を決めるのです。
平安京への遷都を桓武天皇へ建議(意見を申し上げること)し、実際に都づくりの現場監督を担ったのが、「和気清麻呂」(わけのきよまろ)。絶大な仏教勢力と48代「称徳天皇」の寵愛を背景に、天皇の地位を目論んだ僧侶「道鏡」(どうきょう)へ対抗した人物です。
道鏡に暗殺されそうになったり、名前を変えられ流罪にされたりしました 。道鏡の失脚後に名誉を回復。桓武天皇のもと、平安京建設や各地の治水工事において、大活躍したのです。
平安京は、平城京と同じく、「唐」(とう:7~10世紀の中国王朝)の「長安」(ちょうあん)の都を模範にし、条坊制(じょうぼうせい)を持つ都でした。条坊制とは、東西・南北に走る大路によって京域(都の全域)を碁盤目状に区画し、街区を呼称する制度。唐の長安の制に倣ったもので東西列を「条」、南北列を「坊」と呼びます。
平安京の規模は京都盆地のほぼ中央に、東西約4.5km、南北約5.2km。新しい都の中央部を南流していた鴨川(かもがわ)は、都を洪水から守るために、大工事によって都の東辺に流れを変更。都の西を流れる桂川とともに水上交通のルートとなりました。
そして、都の北部中央には「大内裏」(だいだいり:天皇の在所)を配置。大内裏の南面中央が「朱雀門」(すざくもん)で、ここから都の南端の「羅城門」(らじょうもん)まで、幅28丈(約85m)の朱雀大路(すざくおおじ)が造られました。
朱雀大路から大内裏に入ると、正面に「応天門」(おうてんもん)、その内部に「朝堂院」(ちょうどういん:天皇が政務を行う政庁)、西側には「豊楽院」(ぶらくいん:宴会に使用された館)、その周辺に「太政官」(だじょうかん:政府最高機関)をはじめ、数多くの政庁が配置されたのです。
また、朱雀大路で東西を左京と右京の2地区へ分け、東西の大路で1~9条まで9つの条、南北の大路で8つの坊がつくられました。大路で囲まれた街区を小路で16分割した区画が「町」で、その規模は40丈四方(約120×120m)になります。
左京・右京は、東西南北に走る大小の道路によって整然と区画されたわけですが、そこに東西の市場、「鴻臚館」(こうろかん:平安時代に設置された外交及び海外交易の施設)、都を鎮護するための寺院「東寺」(とうじ)、「西寺」(さいじ)を建立。
さらに貴族・官人・庶民の住居が造られました。平安京は、比叡山をはじめとする山々に囲まれ、東西に鴨川と桂川を配した地形は美しく壮観さもあるとともに、交通の便としても良い場所。全体として都の立地条件として優れており、日本の都のなかで、最も整った構造だったと言われています。
平安時代前期の平安京の人口は120,000人前後と推定されており、平安時代末期になると推定150,000~180,000人へと増加し左京地区に集中する構造へとなっていったことが分かっています。これは湿地帯が多い、右京地区が荒廃したためと考えられており、9世紀に入ると貴族の館は五条以北に集中。
さらに10~11世紀になると右京は衰退し、左京の四条以北で身分の上下に関係なく過密化が進行。11世紀末以降は、左京を中心とした新たな都市へと再編されていきました。
平安京では、「寝殿造」(しんでんづくり)、「町家」(まちや)という新たな建築様式も誕生。平安京では、三位以上の貴族の館面積は、方一町(ほういっちょう)が基本でした。
方一町とは一町四方のことで、1町(60間、約109m)×1町で、約11,881㎡です。
この方一町の敷地外周を築地塀で囲み、門を設置。敷地の中央部に南面する「寝殿」を置き、寝殿の東、西、北などに「対屋」 (たいのや) を定型的に配置。これらを廊(廊下)でつなぎました。
また、建築群と塀・柵列(さくれつ:支柱を立てて横板を固定した柵を並べた物)などで寝殿の前方を囲んで広庭を構成。建物内部に柱はあるものの、壁はほとんどない開かれた空間。
「母屋」(もや:ひとつの建物の中心となる部分、おもやの意ではない)と「庇」(ひさし:母屋の外側のスペース)による空間が強く意識され、各々に応じた使い分けがなされました。このような住まいの様式を、中心になる建物が寝殿であったことから寝殿造と呼んだのです。
寝殿造の成立は、平安京の過密化と都市化が進展した10世紀と推定されています。一方、10~11世紀には庶民の住まいとして町家が登場します。町家は隣家と密接しつつ街路に直面して並びたち、1町街区の外縁を垣のように囲む形で造られました。
町家がこのように街路に問口(かどぐち:家や門の出入口)を開いて建てられたのは、街の眺望や見物を楽しむための「桟敷屋」(さじきや:居酒屋)を原型に造られたためと言われています。つまり、平安京における町家の誕生は、平安京が街路の賑わいを伴う都市化へと進展したことに大きくかかわっているのです。