戦国時代において実質的に天下を統一し、戦乱の世を終わらせた人物は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)です。しかし豊臣秀吉は、戦国大名達との戦いに勝つことのみで成し遂げたのではありません。天下を統一するには、地方を支配していた武将だけでなく、全国に住む農民・町人など、すべての人々を従わせる「仕組み」作りが必要でした。この仕組みを作るために行われたのが、有名な「太閤検地」(たいこうけんち)・「刀狩」(かたながり)です。そして、武家・農民・町人といった身分を固定させ、下剋上(げこくじょう:身分の低い者が上の者を討って立場を逆転させること)が起こりにくい世の中にすることも、天下統一の重要な政策でした。
室町時代後期、地方の武士は農村に住み、周囲の農民を支配すると同時に、自らも農作業に従事していました。つまり、戦国大名に所属する武士は、ほとんどが武装した農民だったのです。
そのため、武士と農民の区別が曖昧で、田植え・稲刈りの農繁期には戦意が下がるという問題がありました。これを解決したのが「織田信長」(おだのぶなが)。織田信長は自軍の奉公人(武士)を城に近い城下町に住まわせ、農作業から手を引かせます。同時に、平時において武器の扱いに関する訓練を行い、戦闘の専門家集団に育てていきました。
こうして織田信長は強力な軍団を作り上げ、天下統一にあと一歩のところまで迫りましたが、1582年(天正10年)、家臣「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反によってその夢は絶たれてしまいます。
その遺志を継いだ豊臣秀吉は、織田信長の政策をさらに一歩進めた形で、武士と農民の分離を推進。その中心政策が検地です。
検地は織田信長の時代にも行われていたため、豊臣秀吉が独自に行ったものを区別して「太閤検地」(太閤とは、以前関白[かんぱく]であった人の尊称)と呼びます。
太閤検地によって全国の田畑・屋敷の土地を、米(玄米)の生産量に換算して表す「石高制」(こくだかせい)が確立。
そして土地ごとの年貢は村全体で集計され、村の代表者が一括して年貢を納入する「村請制」(むらうけせい)が採られます。これによって、年貢の納入に関して個人から村全体の連帯責任となり、農民が勝手に村を逃げ出すことはできなくなりました。
こうした兵農分離政策の総仕上げとして、1591年(天正19年)に豊臣秀吉が出したのが「人掃令」(ひとばらいれい)でした。
これは3ヵ条からなり、第1条は「武家の奉公人が町人・農民になること」、第2条は「農民が商人・職人になること」、第3条は「武家の奉公人が主人を変えること」をそれぞれ禁止。違反した場合、違反者はその村から追放されました。
ちなみに、この命令を「人掃い」と呼ぶのは、違反者を追放することを人掃いと呼んだことと、戸口調査の「人別改」(にんべつあらため)という意味も含まれていたと言われます。