1904年(明治37年)に起こった「日露戦争」で、日本は戦勝国としてロシア帝国と「ポーツマス条約」を結びました。しかし期待していた賠償金を得られないなど、日本国民は条約の内容に不満を持ち、東京市麹町区(こうじまちく:現在の東京都千代田区)の「日比谷公園」(ひびやこうえん)で行われた国民大会をきっかけに警官隊と衝突。さらに、内務大臣官邸・新聞社などが焼打ちされる暴動事件へ発展します。暴動は短期間で終息したものの、国民が政治に強い関心を持つきっかけとなり、「普通選挙」(すべての成人が等しく選挙権を行使できる選挙形式)などを求めた「大正デモクラシー」の先駆けになりました。
日露戦争は結果として、日本側に有利な内容で講和(こうわ:戦争を終結すること)条約が結ばれましたが、この日露戦争に至るまで、日本政府内では開戦反対派も少なくありませんでした。
「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)は、イギリスと協力することでロシア帝国との均衡を保つことができると考え、実際に「日英同盟」の締結にいたります。
また、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)も列強のロシア帝国と戦争をするよりも、協力するほうが日本にとって利益があると考えており、開戦が決定される最後まで、日露協商の道を探っていました。
民間においても、思想家「内村鑑三」(うちむらかんぞう)がキリスト教徒の立場から、ジャーナリスト「幸徳秋水」(こうとくしゅうすい)が社会主義者の立場から、ロシア帝国との非戦論を展開します。
一方で日清戦争のあと、割譲(かつじょう:領土を譲り受けること)を受けた遼東半島(りょうとうはんとう)を返還させられた「三国干渉」(ロシア帝国、ドイツ、フランス3国による日本へ圧迫)の影響で、ロシア帝国への敵対心を強くする者も少なくなく、早期の日露開戦を唱える「対露同士会」(たいろどうしかい)のような強硬派団体も結成されました。
大国ロシア帝国との戦争で、日本は多大な兵力と軍費を費やし、国民も重税と多額の国債(国が発行する債券、債券購入者は購入金額に応じた利息を受けることができる)など、大きな負担を強いられることになりました。
ところが新聞報道では、日本が連戦連勝ということだけが報道され、各戦地での苦戦ぶりを知らされていなかったため、多くの国民が講和条約となれば莫大な賠償金をロシア帝国から得られると思っていたのです。
しかし、実際に結ばれたポーツマス条約では、大韓帝国(李氏朝鮮が改名した朝鮮王朝)の保護国化、旅順(りょじゅん)と大連(だいれん)の租借(そしゃく:領土を借り受ける)権、北緯50度以南の樺太(からふと)の割譲、カムチャッカの漁業権などが得られたものの、賠償金はまったく支払われませんでした。この講和条件は当初の見込みより不利なものだったため、日本国民は不満を募らせ、当時の「桂太郎」(かつらたろう)内閣に猛然と批難の矛先が向けられました。
日清・日露戦争の時期には、知識人層だけでなく労働者層へ向けた新聞が刊行されるなど、新聞購読者層が拡大。路上で号外が売られると通りの人は足を止め、人だかりができてその場で号外を読みながら意見を論じるなど、庶民間でも政治意識が強く高まっていたのです。
そうした機運のなか、ポーツマス講和会議に際して、対露同志会の幹部「頭山満」(とうやまみつる)、「河野広中」(こうのひろなか)らが再結集して「講和問題同志連合会」を結成。講和問題同志連合会は、日露戦争での勝利に見合った内容の講和条約を結ぶべきであると主張します。1905年(明治38年)8月末にポーツマス条約の内容が報じられると、講和問題同志連合会は「屈辱的大譲歩」と見なして、ポーツマス条約破棄を求める運動を開始しました。
講和問題同志連合会は、ポーツマス条約が締結された9月5日に日比谷公園にて国民大会を開き、講和反対の署名を日本政府へ提出しようと画策。また、同月3日と4日にかけて、全国各地で同様の集会が開かれており、警察は機先を制するように、日比谷公園の国民大会の開催禁止命令を出しました。
国民大会当日の朝8時から、日比谷公園の各門には警官が配置され、来会者に国民大会の禁止を告げて退去が促されました。しかし立ち去る者は少なく、正門前は10,000にも達する群衆で溢れかえります。
群衆を抑えきれなくなった警察は、丸太で柵を作って群衆の立ち入りを禁止しましたが、これに憤慨した人々が次々に柵を乗り越えて日比谷公園に侵入。警官に向かって罵声を浴びせ、石・瓦礫を投げ付けるなど暴力行使に至りました。
民衆が日比谷公園へなだれ込むと、講和問題同志連合会より、黒布を付した日の丸の小旗が配られます。そして河野広中を議長として国民大会が開会され、講和問題同志連合会のメンバーによる「講和条約破棄決議案」などの読み上げ、「君が代」の演奏、天皇と陸海軍に対して万歳三唱が行われたのです。警察との攻防の末に勝ち取った国民大会開催は、民衆に強烈な高揚感をもたらしました。
国民大会後、参加者は散会しますが、4,000人ほどの集団が「国民新聞社」(現在の東京新聞の前身)へ向かいます。国民新聞はポーツマス条約に肯定的立場を取っていたため、日本政府の御用新聞と見なされ、目の敵にされていました。
国民新聞社前に集まった人々は、「国民新聞はロシア帝国のスパイだ」と言って石・レンガを投げ込み、社屋の戸を破って侵入して輪転機(印刷用機械)、屋上の看板などを破壊。さらに、日比谷公園正門を出た大通りにある、内務大臣官邸の裏門へも一団の群衆が集まり、鉄門を破って内務大臣官邸内の警衛詰所を破壊して、官邸にも火が放たれる騒ぎにまで発展しました。
こうして始まった暴動は、講和問題同志連合会から離れて広がっていきます。まず暴動の対象となったのは、民衆に恨みを買っていた警察で、5日の夜から7日の未明にかけて、東京市内の警察署・交番などの約7割が焼失。さらに、ポーツマス講和条約に賛成し、平和回復に積極的だったキリスト教会も13ヵ所が焼かれ、日露の仲裁に入ったアメリカ駐日公使館なども襲撃されました。
暴動によって無政府状態になった東京では、6日に非常事態として「戒厳令」(かいげんれい:非常時に軍隊へ行政・司法権を移行し指揮下に置くこと)が施行され、軍隊が出動。そして麻痺した警察機能の代わりに、軍隊による巡回警護が行われ、市内各所に検問所を設置して通行人のチェック、東京府内の新聞・雑誌社などが取り締まられました。
また、7日の夕方からは激しい降雨があり、文字通り民衆の高揚感に水をさす形となったことで暴動は収まり、死者17名、負傷者500名以上、検挙者2,000名以上を数える大騒動が終息したのです。
日比谷焼打ち事件は、民衆が大挙して実力行使し、日本政府が無視できないような意思表示をしたという意味で画期的な事件でした。また、世論の形成に新聞が大きな役割を担ったことは事実でしたが、その新聞も民衆の意向によっては国民新聞のような目に遭うこともあり、民衆の意志を無視することはできません。
こうして、民衆の行動が日本政府を動かしうるという経験は、のちに起こる大正デモクラシー(大正時代に起きた民主主義の発展)へとつながっていきました。
またアメリカは、日本からの要請によってポーツマス条約の仲介に入ったにもかかわらず、自国の公使館を襲撃されたことで日本への印象が悪化。もとより、日露戦争での日本の勝利によって、アメリカ国内で黄色人種が白色人種を脅かすという「黄禍論」(こうかろん)が台頭してきており、一層日米関係が冷え込む原因にもなったのです。