江戸時代の重要用語

平賀源内 
/ホームメイト

江戸時代中期、江戸幕府10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の時代に、「発明家」として名を馳せたのが「平賀源内」(ひらがげんない)です。卓越した才能と奇抜なアイデア、旺盛な好奇心で、文系・理系・芸術系すべての分野で活躍。鎖国により海外との交流が制限された時代に、平賀源内は積極的に西洋技術・学問を吸収し、世の中に発信し続けました。日本科学史の先駆者、滑稽文学である戯作(げさく)の開祖など、今でこそ様々な評価を受けていますが、当時の日本では平賀源内の豊かな才能が手放しで受け入れられた訳ではなく、挫折・失敗も多い人生だったのです。それでもあきらめず、最後まで挑戦し続けた平賀源内は、どんな人物だったのでしょう。

江戸時代の重要用語

平賀源内 
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江戸時代中期、江戸幕府10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の時代に、「発明家」として名を馳せたのが「平賀源内」(ひらがげんない)です。卓越した才能と奇抜なアイデア、旺盛な好奇心で、文系・理系・芸術系すべての分野で活躍。鎖国により海外との交流が制限された時代に、平賀源内は積極的に西洋技術・学問を吸収し、世の中に発信し続けました。日本科学史の先駆者、滑稽文学である戯作(げさく)の開祖など、今でこそ様々な評価を受けていますが、当時の日本では平賀源内の豊かな才能が手放しで受け入れられた訳ではなく、挫折・失敗も多い人生だったのです。それでもあきらめず、最後まで挑戦し続けた平賀源内は、どんな人物だったのでしょう。

平賀源内の生涯

幼少期から鬼才ぶりを発揮

平賀源内

平賀源内

平賀源内は1728年(享保13年)、讃岐国(さぬきのくに:現在の香川県)にあった高松藩(たかまつはん:現在の香川県高松市)の下級武士の子として誕生。

幼い頃からユーモア・アイデアにあふれた、奇想天外な少年として評判でした。

12歳のとき、掛け軸に酒を供えると、描かれた天神様の顔がみるみる赤く染まる細工をして周囲を驚かせます。この話はすぐに広まり、からくり仕掛けの掛け軸は、「御神酒天神」(おみきてんじん)と呼ばれて話題に。

やがて平賀源内の興味は、自然界のあらゆる物へ向かいます。13歳頃から高松藩の藩医(はんい:江戸時代、藩に仕えた医者)のもとで本草学(ほんぞうがく:薬・動植物を研究する学問)を、さらに儒学者から武士の基礎教養である儒学を学びました。

長崎で異国文化と出会う

ところが平賀源内が22歳のとき、父が死去。兄達も早く亡くなっていたため、平賀源内は父の跡を継いで高松藩の蔵番(くらばん:米の貯蔵庫を管理する役人)になりました。

間もなく高松藩主が平賀源内の才能に気付き、長崎へ留学することとなります。鎖国中だった日本で、唯一海外貿易を許されていたのが長崎の出島(でじま)で、西洋の新しい文化を目の当たりにした平賀源内は、ますます研究欲を募らせました。

郷里の高松藩へ帰ったあと、高松藩へ辞職願を提出。家督を妹婿に譲って江戸へ向かい、医者・本草学者「田村藍水」(たむららんすい)に弟子入りします。平賀源内が29歳のときでした。

科学者・小説家・芸術家として

平賀源内は江戸で精力的に研究に取り組みました。当時貴重品だった朝鮮人参、砂糖の国内生産に挑戦したり、珍しい薬草・鉱物を収集したり、燃えない布を発明したりと、着実に実績を積んでいきます。

この頃は江戸幕府10代将軍・徳川家治の治世。財政改革に取り組んだ老中(ろうじゅう:江戸幕府における重職)「田沼意次」(たぬまおきつぐ)、蘭学医「杉田玄白」(すぎたげんぱく)とも交流しています。田沼意次の援助で、再度の長崎留学も実現しました。

その一方で、平賀源内は小説・浄瑠璃(じょうるり:三味線を伴奏とする語り物音楽の一種)の台本などを執筆する人気作家となります。さらに、西洋画・陶芸といった芸術分野でも活躍。

何より平賀源内を江戸で一躍有名にしたのが、摩擦で静電気を起こす機械「エレキテル」の発明でした。しかし一方で、うさん臭い男だという悪評も立ち、周囲の平賀源内を見る目は少しずつ冷めていったのです。

獄中で無念の死

エレキテルの発明から3年後の1779年(安永8年)、平賀源内はある大名屋敷の工事を請け負うことになりました。しかし宴席のあと、平賀源内は酔いのせいで設計図を盗まれたと勘違いし、大工達を殺傷してしまいます。投獄された平賀源内は間もなく破傷風を患い、51歳で無念の死を遂げました。

葬儀を執り行った蘭学医・杉田玄白は、墓の隣に平賀源内を称える碑を建立。「ああ非常の人、非常の事を好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死ぬる」(人と違い、好みも行いも常識を越えていたあなたは、死に方まで常識と違うのですか)と刻まれました。生まれた時代が早過ぎたと言われる平賀源内ですが、多くの人がその死を惜しんだのです。

平賀源内の事績

発明家として

平賀源内の代名詞とも言える発明品が、静電気発生装置エレキテル。オランダで、病気の治療などに使われていた機械を手に入れ、それを真似て作りました。

箱の中にガラス瓶を入れ、ハンドルを回すとガラス瓶がこすれる摩擦によって電気が発生。この電気が銅線へ伝わる仕組みです。エレキテルは主に電気針治療機として使われました。

また、平賀源内はオランダの書物などを参考に、アルコール温度計を制作。欧米圏で使われる温度の単位・華氏(かし)が採用され、極寒から極暑まで7段階の文字列と数字列が記されています。

人気作家として

平賀源内は浄瑠璃の脚本家としても、歴史的な出来事を取り扱う時代物(じだいもの)を多く手掛けています。また、談義本(だんぎぼん)・洒落本(しゃれぼん)と呼ばれた滑稽な通俗小説「戯作」の創始者とも言われます。

教訓を説く談義本の様式を守りつつ、独特のユーモアと社会への皮肉を込めた作風が、当時の人々の心をつかみました。

芸術家として

科学・文才だけでなく絵心もあった平賀源内は、2度目の長崎留学で西洋画や陶器作りに新たな道を模索。色鮮やかな釉薬(ゆうやく:うわぐすりのこと)を用い、世界地図などの斬新な意匠を描いた「源内焼」(げんないやき)を生み出しました。また、長崎で見た西洋画の技法により「西洋婦人図」などを描きます。

なお、杉田玄白らが翻訳した本格的な西洋医学書「解体新書」(かいたいしんしょ)の挿絵を手掛けたのは、平賀源内から西洋画を学んだ久保田藩(くぼたはん:現在の秋田県秋田市)出身の「小野田直武」(おのだなおたけ)でした。

平賀源内の逸話

土用の丑の日を発案

夏場に客が入らないうなぎ屋が、平賀源内に相談したところ、「本日土用丑の日」(ほんじつどよううしのひ)と紙に書いて店先に貼ることを提案したのです。これは、日本最古のキャッチコピーと言われます。

土用丑の日とは、7月20日~8月7日の間の1年で1番暑い日。夏バテする時期に、うなぎを食べて精を付けようという平賀源内の狙いは大当たりし、店は大繁盛。これを他のうなぎ屋も真似るようになり、土用丑の日にうなぎを食べる習慣が定着し、現在まで続いています。

平賀源内生存説

獄中死した平賀源内ですが、実は生存説も囁かれていました。老中・田沼意次の計らいにより、表向きは獄中死したことにしておき、田沼意次の領国である遠江国相良(とおとうみのくにさがら:現在の静岡県牧之原市)へ逃がしたと言うのです。この説によると、平賀源内は相良で村医師として働き、80歳過ぎまで生きたことになっています。

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