安土桃山時代の重要用語

北条氏直 
/ホームメイト

「北条氏直」(ほうじょううじなお)は、関東で栄えた戦国大名・北条氏の最後の当主になった人物です。この北条氏は、初代当主「北条早雲」(ほうじょうそううん)が現在の静岡県伊豆地方に進出したのを始まりに、5代にわたり関東に一大勢力を築きました。しかし、5代当主・北条氏直が「豊臣秀吉」との折衝に失敗し、1590年(天正18年)の「小田原の役」(小田原征伐)で攻められて敗れ、東国の雄・北条氏は滅んだのです。北条氏直の生涯と、「徳川家康」をはじめとする周辺勢力との関係、また、小田原の役の経緯などをご紹介しましょう。

安土桃山時代の重要用語

北条氏直 
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「北条氏直」(ほうじょううじなお)は、関東で栄えた戦国大名・北条氏の最後の当主になった人物です。この北条氏は、初代当主「北条早雲」(ほうじょうそううん)が現在の静岡県伊豆地方に進出したのを始まりに、5代にわたり関東に一大勢力を築きました。しかし、5代当主・北条氏直が「豊臣秀吉」との折衝に失敗し、1590年(天正18年)の「小田原の役」(小田原征伐)で攻められて敗れ、東国の雄・北条氏は滅んだのです。北条氏直の生涯と、「徳川家康」をはじめとする周辺勢力との関係、また、小田原の役の経緯などをご紹介しましょう。

北条家の発展と5代当主・北条氏直

北条早雲が興し、東国の有力大名家に成長

北条氏直

北条氏直

北条氏直が生まれた北条家は、鎌倉幕府の将軍を補佐した重職・執権(しっけん)を世襲した北条家とは異なります。この鎌倉時代の北条家と区別するために、「後北条氏」(ごほうじょうし/ごほうじょううじ)と呼ばれる、戦国時代に興隆した一門です。

その始祖・北条早雲は15世紀の人物で、室町幕府や駿河国(するがのくに:現在の静岡県東部)の有力大名・今川家に仕えたのち、伊豆国(現在の静岡県伊豆の国市)を統治し始めました。

その後の北条家当主らが、旧勢力を排除しながら領土を拡大し続け、4代当主「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は歴代当主のなかで最大の勢力を誇るまでになります。

北条氏直は、この北条氏政の子として、1562年(永禄5年)に小田原城(現在の神奈川県小田原市)で生まれました。

この頃の北条家は、周辺勢力の「上杉謙信」(うえすぎけんしん)や「武田信玄」(たけだしんげん)を相手に、同盟と決裂を繰り返し、たびたび交戦しています。

その結果、北条氏直の父・北条氏政は、上杉氏武田氏と断絶して徳川家康と同盟を結び、北条氏直の正室に徳川家康の娘「督姫」(とくひめ)を迎えさせて、両家の関係を固めたのです。

天下人・豊臣秀吉の呼び出しに応じず、緊張状態に

豊臣秀吉

豊臣秀吉

北条氏直は、1580年(天正8年)に父・北条氏政から家督を譲られると、父と子の二頭体制で領国運営にあたりました。

その頃、「豊臣秀吉」は、四国の「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)、九州の「島津義久」(しまづよしひさ)を制圧し、東海の徳川家康には臣下の礼を執らせており、天下統一まで、残るは東日本だけです。

そこで豊臣秀吉は、関東広域を支配する北条家を従わせようと、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直に上洛を要請しましたが、北条親子は応じません。

これは強硬派の北条氏政の意向だったと言われており、穏健派の北条氏直は、舅(しゅうと)の徳川家康から上洛を促されると、叔父の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させて柔軟な対応をしていたのです。

しかし、この時期の北条家は、沼田領(現在の群馬県沼田市)の支配権をめぐって、真田氏とも紛争していました。この諍いは、1589年(天正17年)、北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、独断で沼田領内の「名胡桃城」(なぐるみじょう)を真田氏から略奪する事件に至ります。これは、大名同士の私戦を禁じていた豊臣秀吉に、北条家を攻める口実を与えてしまいました。北条氏直は豊臣秀吉に弁明の書状を送りますが、事態は小田原の役に発展します。

豊臣秀吉は、名胡桃城事件の翌年、1590年(天正18年)から北条家の支城を次々と攻め、ついに180,000の大軍で北条家の居城・小田原城を包囲したのです。

小田原の役に敗れ、小田原城を明け渡す

小田原城下をまるごと要塞に造り変え、100日間の籠城戦を耐える

北条氏直は、小田原の役が起きる前から、豊臣秀吉との戦いは避けられないと見て、武器や兵糧を蓄えており、開戦前には領内の民間人にも武装させて50,000人余りを動員していました。

しかし、豊臣秀吉の大軍に加えて、北条家と同盟関係にあったはずの「伊達政宗」(だてまさむね)も豊臣方に付いてしまい、北条氏直は籠城戦でしのごうとします。

そのつもりで、前もって小田原城と城下町を堀と土塁で囲み、惣構(そうがまえ)と呼ばれる大規模な要塞を築いていたのです。

豊臣秀吉の大がかりな一夜城トリック

これに対して、豊臣秀吉は手出しせず、小田原城を見下ろす笠懸山(かさぎやま:神奈川県小田原市。現在の名称は石垣山)に総石垣造りの本格的な城を築き始めました。

築城中は木々に覆われたままにしておき、わずか80日間で城を完成させると、一斉に木々を伐採したので、小田原城からは一夜で築城したように見え、北条勢は動揺したと言われています。

この一夜城で、豊臣秀吉は連日、茶会を催して余裕のあるところを見せ付けたため、北条勢は追い詰められ、小田原城中は降伏か徹底抗戦かで紛糾しました。ちなみに、いつまで話し合っても結論が出ない会議のことを「小田原評定」(おだわらひょうじょう)と言うのは、この故事が由来です。

こうして、北条勢は約100日間の籠城戦を耐えましたが、北条氏直はついに降伏を決意し、自身の切腹と引き換えに、小田原城中の者らの助命を願い出ました。

北条氏直の最期

北条氏直が自身の命を差し出して、家臣や兵を救おうとしたことに豊臣秀吉は感心し、また、東海随一の有力大名・徳川家康の娘婿であることを考慮して、北条氏直を助命します。

その結果、北条氏直の父・北条氏政と、その弟「北条氏照」(ほうじょううじてる)が切腹となり、北条氏直には、真言宗の総本山・高野山(こうやさん:現在の和歌山県・紀伊山地の一部)での蟄居(ちっきょ:閉じ込めて謹慎させる刑罰)が命じられました。

しかし、この温情判決の翌年、1591年(天正19年)に北条氏直は病死し、北条家の旧領のほぼすべてが徳川家康に割譲されます。

こうして、5代で関東の雄に上り詰めた北条家は滅び、豊臣秀吉は天下統一を果たしました。また、関東広域を譲り受けた徳川家康は、のちの江戸幕府創設につながる関東統治に動き出すのです。

北条氏直が黒田官兵衛に贈った国宝・日光一文字

黒田官兵衛

黒田官兵衛

北条氏直が小田原の役で降伏を決意したのは、豊臣秀吉の軍師「黒田官兵衛」(くろだかんべえ:黒田孝高/黒田如水[くろだよしたか/くろだじょすい]とも)の説得に心を動かされたからです。

このとき、黒田官兵衛は礼装して日本刀を持たず、単身で小田原城に入り、北条氏直に無血開城を勧めたと言われています。

この仲立ちに感謝した北条氏直は、家宝の太刀「日光一文字」(にっこういちもんじ)を黒田官兵衛に贈ったのです。

日光一文字
日光一文字
無銘
鑑定区分
国宝
刃長
67.8
所蔵・伝来
北条氏直 →
黒田如水 →
福岡市博物館

この太刀は、北条家の祖・北条早雲が「日光権現社」(にっこうごんげんしゃ:現在の栃木県日光市)から譲り受けたと伝えられてきました。

華やかな「重花丁子乱れ」(じゅうかちょうじみだれ)の刃文から、鎌倉時代に備前国(現在の岡山県東南部)で活動した「福岡一文字派」の刀工の作と考えられています。

北条氏直から黒田官兵衛に譲られたのちは、黒田家の家宝として守られてきました。1933年(昭和8年)に戦前の旧国宝制度のもとで国宝に指定され、1952年(昭和27年)に改めて国宝に指定されています。現在は、黒田家から福岡市に寄贈され、福岡市博物館の所蔵です。

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