源頼朝が開いた鎌倉幕府は、わが国で初となる武士による政権です。これによって武士達の社会的な地位は向上していきました。さらに「源頼朝」(みなもとのよりとも)は、武士が土地を所有することを認めたり、新たな土地を与えたりすることで、武士達の忠誠心を引き出したのです。このように、土地を通じて結ばれた主従関係で成り立つ支配制度を「封建制度」(ほうけんせいど)と呼びます。しかし、この新たな社会構造は、鎌倉幕府が武士達に十分な土地などの見返りを与えられなくなったことで行き詰まり、そのまま鎌倉幕府の崩壊へと繋がっていったのです。
1185年(元暦2年/寿永4年)、「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平氏を滅ぼした源頼朝は、「後白河法皇」(ごしらかわほうおう:77代・後白河天皇が譲位後に出家した際の尊号)から、実弟「源義経」(みなもとのよしつね)を追討する「院宣」(いんぜん:上皇の命令)を出させることに成功。
このとき源頼朝は、源義経追討の院宣に従う代わりに全国各地へ「守護」(しゅご)と「地頭」(じとう)を置くことを、後白河法皇に認めさせました(文治の勅許[ぶんじのちょっきょ])。
守護とは地方の治安を守る、現代の警察のような役割。一方、地頭は当時全国に急速に増えていた「荘園」(しょうえん:有力寺社や貴族・豪族などの私有地)や「公領」(こうりょう:国の役人である国司の支配下にあった土地)へ置かれ、年貢の徴収や土地の管理を担いました。
どちらも源頼朝と主従関係を結んだ武士「御家人」(ごけにん)のなかから選ばれることとなっており、その任命権は源頼朝が掌握していたのです。
源頼朝と御家人の主従関係は、「御恩」(ごおん)と「奉公」(ほうこう)に基づく厳格なものでした。御恩とは、源頼朝から領地を与えられること。この領地には2種類ありました。
ひとつは、御家人が一族のよりどころとして命がけで守ってきた先祖伝来の土地。この土地の領有を正式に承認されることを「本領安堵」(ほんりょうあんど)と言います。当時の御家人は、自分の土地を命懸けで守ることを誇りとしており、これが「一所懸命」という言葉の由来とされます。
もうひとつは、地頭に任じられたり、合戦における功績に応じて与えられたりする新しい土地で、「新恩給与」(しんおんきゅうよ)と呼ばれました。特に地頭に任じられて新恩給与を賜ることは、御家人にとってこの上ない栄誉だったのです。
この御恩に対し、御家人が鎌倉幕府に忠誠を誓い、命がけで報いることが奉公。例えば、御家人は平時には京都で朝廷を警護する「京都大番役」、鎌倉にて鎌倉幕府の警護をする「鎌倉番役」を交代で務め、戦時には一族で鎌倉へ馳せ参じ命がけで戦いました。
これによって源頼朝とその家来である御家人の間に、土地を仲立ちとした強固な結び付きが生まれたのです。その主従関係を中心とした新しい社会構造を一般的に封建制度と呼びます。
1199年(建久10年)に源頼朝が亡くなると、鎌倉幕府内の権力争いが一気に表面化。
1219年(建保7年)、鎌倉幕府3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されて源将軍家が滅亡すると、「北条時政」(ほうじょうときまさ)をはじめとする北条氏が、実権を握りました。
一方、西国(西日本)ではいまだ朝廷の支配が強く、東国(東日本)を支配する鎌倉幕府との対立が顕著に。
鎌倉幕府の混乱に乗じて、1221年(承久3年)、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう:82代・後鳥羽天皇)は倒幕のために挙兵。これを「承久の乱」(じょうきゅうのらん)と呼びます。
鎌倉幕府の最初の危機でしたが、御家人達の働きにより鎌倉幕府軍が圧勝。鎌倉幕府は朝廷に味方した貴族・武士の領地を没収。手柄を立てた御家人達に新恩給与として与え、地頭に任命しました。
これにより御恩と奉公による主従関係はいっそう強化され、鎌倉幕府の支配力は一気に西国にまで拡大していったのです。
しかし、土地を仲立ちとする封建制度は、それほど長くは続きません。まず、「元寇」(げんこう:1274年[文永11年]、1281年[弘安4年])にてモンゴル軍を撃退したあと、命がけで戦った御家人達に対し、鎌倉幕府は十分な褒賞で報いることができませんでした。
それは、外国からの侵攻を防いだだけで、新たな領地が増えた訳ではないため。戦いで出費がかさんだ上に、期待していた御恩がもらえなかった御家人は、鎌倉幕府に対する不満を募らせます。さらに、領地の相続方法により経済的な困窮が起きます。当時、領地を相続する際は、家長の子らによって均等に分割。当然、相続のたびに次代の領地は小さくなり、経済的なひっ迫に繋がっていきます。なかには借金のために領地を失う御家人もおり、土地を仲立ちとした封建制度は限界を迎えます。
こうした状況の中から、「悪党」(あくとう:徒党を組んで社会秩序を乱す者の意味)と呼ばれる武士達が現れて、鎌倉幕府や荘園領主などに反抗します。
鎌倉幕府との信頼関係が途切れた御家人達に、もはや鎌倉幕府の味方をする者は少なく、封建制度の崩壊とともに鎌倉幕府も終焉に向けて突き進んでいきました。