室町時代の重要用語

細川幽斎 
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「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)は、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、茶道、歌道など芸術文化の発展にも尽力した人物です。室町時代には室町幕府に仕え、戦国時代になると「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」と、歴代の天下人にも重用されました。権力が移り変わる流れを巧みに読む力を備え、その世渡り術は戦国随一と言われています。文武両道として知られる細川幽斎について、その生涯と功績を紹介していきます。

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「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)は、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、茶道、歌道など芸術文化の発展にも尽力した人物です。室町時代には室町幕府に仕え、戦国時代になると「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」と、歴代の天下人にも重用されました。権力が移り変わる流れを巧みに読む力を備え、その世渡り術は戦国随一と言われています。文武両道として知られる細川幽斎について、その生涯と功績を紹介していきます。

細川幽斎の生涯

幼少期に細川家の養子に

細川幽斎

細川幽斎

細川幽斎は、室町時代後期の1534年(天文3年)に京都の東山(現在の京都府京都市東山区)で誕生しました。父は「三淵晴員」(みつぶちはるかず)とされ、室町幕府将軍に仕えるほどの名家とされます。

細川幽斎の幼名は「万吉」(まんきち)。1539年(天文8年)に室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)の命により、伯父「細川元常」(ほそかわもとつね)の養子となります。

1546年(天文15年)には、室町幕府13代将軍「足利義藤」(あしかがよしふじ:のちの足利義輝[あしかがよしてる])より1字を賜り、「細川藤孝」(ほそかわふじたか)と命名されました。なお、広く知られている細川幽斎の名は、文人、画家などが本名以外に付ける雅号。のちに、「本能寺の変」が起きた1582年(天正10年)には剃髪し、「幽斎玄旨」(ゆうさいげんし)と名乗るようになりました。

足利義昭から織田信長へ鞍替え

足利義昭

足利義昭

1554年(天文23年)に、伯父・細川元常が亡くなると、細川藤孝は細川家の家督を継承し、室町幕府13代将軍・足利義輝の側近として、幕政に尽力。

その後、1565年(永禄8年)に起きた、政変「永禄の変」において足利義輝が討ち死にすると、室町幕府将軍の継承争いに敗れて「興福寺」(こうふくじ:奈良県奈良市)に幽閉されていた、足利義輝の弟「一乗院覚慶」(いちじょういんかくけい:のちの足利義昭[あしかがよしあき])を救出します。

1568年(永禄11年)に、足利義昭は織田信長の支援を受けて、室町幕府15代将軍に就任。

しかし、その後、足利義昭と織田信長の仲が次第に悪くなっていき、1573年(天正元年)には、織田信長が足利義昭を糾弾する書状を出します。これにより、両者の対立関係が鮮明となりました。

細川藤孝は、軍を率いて織田信長のもとへ向かうと臣従。このとき、足利義昭が織田信長に対して、反感を抱いていることを伝えたのは細川藤孝とも言われています。最終的に、足利義昭は織田信長に降伏し、室町幕府は終焉を迎えました。

織田家臣時代の細川幽斎

長岡藤孝へ改名

織田信長に仕えるようになった細川藤孝は、1573年(天正元年)に山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)の長岡(現在の京都府長岡京市)を与えられます。このころから「長岡藤孝」と名乗るようになり、織田軍の武将として「高屋城の戦い」、「越前一向一揆征伐」などで多くの武功を上げました。

それらの活躍が認められ、1580年(天正8年)には、丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)へ入国。織田信長から丹後国南部の領地を与えられ、「宮津城」(みやつじょう:京都府宮津市)を居城としました。

本能寺の変で持ち前の処世術を発揮

室町幕府将軍家、織田家と時流を読みながら世渡りをしてきた細川藤孝は、1582年(天正10年)の本能寺の変が起きた際も、処世術を発揮。

織田信長を討ち取った「明智光秀」は、細川藤孝に対し支配下に入るよう再三要請します。もともと、明智光秀と細川藤孝は主従関係にあり親交も深かったものの、細川藤孝は明智光秀の要請を拒絶。剃髪して、幽斎玄旨と号して「田辺城」(たなべじょう:京都府舞鶴市)に隠居してしまいました。これは、細川藤孝が明智光秀の敗死を察していたからとも言われています。

また、明智光秀は身分の低い出身で、それとは対照的に細川幽斎は、室町幕府に使える重臣の家系。その身分差があることから、細川幽斎は明智光秀の配下に入ることを嫌ったとの説もあります。

豊臣秀吉、徳川家康に従属

豊臣秀吉が天下を獲ると細川幽斎は、茶の湯の大家「千利休」、僧侶「木食応其」(もくじきおうご)などとともに、文化人として重用されます。

1586年(天正14年)には、山城国の西ヶ岡(現在の京都府綾部市)3,000石を与えられ、武将としても活躍。1585年(天正13年)の「紀州征伐」、1587年(天正15年)の「九州平定」にも参戦し、1595年(文禄4年)には、大隅国(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)において3,000石が加増されました。

そして、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、今度は徳川家康に臣従。「関ヶ原の戦い」では田辺城に籠城し、西軍を大いに苦しめます。

文化人としての名声によって講和へ

関ヶ原の戦いにおいて、細川幽斎が籠城した田辺城には500人ほどの兵しかいませんでした。一方、それに対して包囲した西軍は15,000人の兵。単純な兵力では勝ち目はなく、落城目前。しかし、ここで細川幽斎の文化人としての名声が活かされることになります。

細川幽斎は、「古今和歌集」の解釈を伝授する「古今伝授」の継承者としても名高く、107代「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)の弟、「八条宮智仁親王」(はちじょうのみやとしひとしんのう)にも教授しています。

細川幽斎が亡くなると、古今伝授の伝承者がいなくなってしまうため、それを憂慮した朝廷は、田辺城へ勅使(使者)を遣わしました。そして勅命(天皇の命)により、西軍との間で講和(戦いの終結)が締結。細川幽斎は田辺城を開城し、西軍の武将「前田茂勝」(まえだしげかつ)の居城であった「亀山城」(かめやまじょう:京都府亀岡市)に入城します。この田辺城の戦いでは、徳川家康の統治の正当性を世に知らしめることとなり、西軍の大将「石田三成」にとって大きな痛手となりました。

関ヶ原の戦い後に、長岡から細川へ復姓。以降は悠々自適な晩年を過ごしたとされます。1610年(慶長15年)に、京都の邸宅でこの世を去りました。享年77歳。

細川幽斎の逸話

細川忠興

細川忠興

「水前寺成趣園」(すいぜんじじょうしゅえん:熊本県熊本市)には、細川幽斎が八条宮智仁親王へと古今和歌集の解釈を伝授した「古今伝授の間」があり、往時の面影が残されています。

また、細川幽斎は剣術の達人としても有名。戦国時代における最高の剣豪と名高い「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)から剣技を学んだとされ、室町幕府13代将軍・足利義輝とは剣術の同門です。

さらに、長男「細川忠興」(ほそかわただおき)も教養人として名が通っています。細川忠興は、千利休の高弟とされる7人の武将「利休七哲」(りきゅうしちてつ)の1人に数えられている他、ワイン作りにも精を出していました。

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