16世紀初頭、ドイツでキリスト教の宗教改革運動が起こると、キリスト教は「カトリック」(ローマ教皇を最高指導者とするキリスト教最大の教派。旧教)と「プロテスタント」(カトリックから派生した、聖書を重視する教派。新教)に分裂。この動きのなかで、カトリックから生まれた組織が「イエズス会」です。当時は「大航海時代」(だいこうかいじだい:西ヨーロッパの国々が世界へと探検航海に出かけ、通商を行った時代)であり、イエズス会は新しい信者を獲得するため、世界中へと宣教師を派遣しました。そして1549年(天文18年)、イエズス会の創立者のひとり「フランシスコ・ザビエル」が来日したのち、イエズス会は戦国時代の日本で積極的に布教活動を展開しました。
16世紀、キリスト教最大の教派であるローマ・カトリック教会は、スペイン・ポルトガル両国に海外への布教活動を許可します。
当時のヨーロッパ人から見れば、キリスト教を信奉していない地域は野蛮人の国と見なし、布教だけでなく貿易、さらには征服して植民地経営を行うことまで許可されていました。
そしてスペイン船は大西洋を渡ってアメリカ大陸へ、ポルトガル船はアフリカ大陸を回って南からアジアへと進出。
このポルトガル船が1543年(天文12年)に「種子島」(たねがしま:鹿児島県西之表市)に到着したことで、日本とポルトガルとの間で「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)が始まります。これによってイエズス会へ日本の情報がもたらされ、1549年(天文18年)にイエズス会創立者のひとりで、有名なフランシスコ・ザビエルが日本を訪れました。
当時のイエズス会の布教方法は、未開の地の国王をキリスト教に改宗させ、支配下の民衆まで改宗させるというもの。
フランシスコ・ザビエルは京都に向かいますが室町幕府第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)との面会はかないませんでした。
そこで中国・四国で布教を行い、周防(すおう:現在の山口県東部)の「大内義隆」(おおうちよしたか)や、府内(ふない:現在の大分県大分市)の「大友宗麟」(おおともそうりん)に面会しています。
次にイエズス会から日本に派遣された「ガスパル・ヴィレラ」は足利義輝に謁見し、日本での布教許可を獲得。1565年(永禄8年)には「ルイス・フロイス」(のちに、当時の日本に関して記述した[日本史]を著した宣教師)が合流し、本格的な布教活動が始まりました。
しかし当時の京都は戦乱の真っ只中。やがて足利義輝が暗殺され、ルイス・フロイス達も京都から追放されてしまいます。しかし1569年(永禄12年)に、第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)とともに京都に入った「織田信長」への謁見に成功。キリスト教に寛容であった織田信長から改めて許可を得て、布教活動を再開します。
宣教師達は、布教の前に日本のことを徹底的に調査しました。当時、宣教師が母国に送った手紙には「日本には多くの国があるが、言語はひとつなので習得は容易である」と紹介しています。歴史のなかでラテン語やモサラベ語(イスラム教支配下の言語)など、多くの言葉が混在したポルトガル人にとって、日本語を習得することは難しくなかったのです。
また同じ手紙の中で、宣教師達は日本の戦国大名を「rei」(ポルトガル語で国王の意味[以下同])、将軍を「emperador」(皇帝)、そして天皇を「summo pontifice」(教皇)と訳しました。宗教的な日本の最高権威である天皇を、カトリックの最高指導者であるローマ教皇になぞらえたことは、当時の宣教師達が日本のことを正確に認識していたことの証と言えます。
当時の日本人も、初めて接するキリスト教に興味を持ちました。ルイス・フロイスは、多くの日本人が宣教師の話を聞きに訪れたと証言しています。宣教師達は、日本人にキリスト教の教えを伝えるために仏教を積極的に学びました。
当時、京都では仏教の様々な宗派の説法が盛んに開催されており、宣教師達も布教の参考にするために説法を聞きに行きました。
説法に参加したルイス・フロイスは、故国への手紙の中で「説教師の声や温和さ、立ち居振る舞いのすべてが尊敬できるものであった」と、そのときの感動を書き残しています。
当時のヨーロッパ人にとって、遠く離れたアジアの片隅に、これほどの高い文明を持つ国があることはまったく想定外であったと思われます。さらに宣教師達にとって意外だったのは、仏教における釈迦の存在が、キリスト教のイエス・キリストと極めて似通っていたということでした。
唯一神のキリスト教にとって、イエス・キリストの偽物は「悪魔」以外の何者でもなかったのです。しかし逆に考えれば、すでに仏教を受け入れていた日本人にとって、キリスト教を受け入れることは難しくありませんでした。事実、ルイス・フロイスが京都に到着した1565年、キリスト教の信者はわずか10,000人ほどでしたが、50年後には370,000人まで増えています。
布教のための施設として、安土(あづち:滋賀県近江八幡市)と有馬(ありま:長崎県南島原市)に神学校の「セミナリオ」、府内に宣教師養成学校の「コレジオ」などの施設を建設。さらに長崎・京都・江戸など全国十数ヵ所に「南蛮寺」(なんばんじ:教会堂)が建てられ、全国で布教が行われました。
キリシタン大名(キリスト教徒となった戦国大名)も各地に現れましたが、そのなかには純粋にキリスト教を信奉したというよりも、鉄砲や火薬、弾丸などを手に入れるため南蛮貿易の商人に接近する手段としてキリスト教徒となる者もいたと言われます。
キリシタン大名として知られる大友宗麟も、「宣教師は日本人全体に習慣を捨てさせ、自分達の習慣を強制しようとしている」と不満を述べたと言われます。
しかし「豊臣秀吉」によって天下統一が実現し、火薬や弾丸を大量に輸入する必要がなくなると南蛮貿易は衰退します。さらに「神の前に人類はみな平等」という思想は、日本の支配の妨げになると判断した豊臣秀吉が、1587年(天正15年)に宣教師を日本から追放。こうして、イエズス会の目的である日本教化計画は失敗に終わったのです。
2022年(令和4年)現在、イエズス会は会員数20,000名を誇る、世界で2番目に大きなカトリックの男子修道会。今日も世界中で布教と高等教育活動を展開しており、日本でも「上智大学」(じょうちだいがく:東京都千代田区)が日本におけるイエズス会の大学として知られます。
同学で神学を教えたスペイン人「アドルフォ・ニコラス」氏は、2008~2016年(平成20~28年)までイエズス会の総長を務めました。