「井上毅」(いのうえこわし)は明治時代の政治家です。早くからその才覚を発揮し、明治政府の司法省(しほうしょう:法律に関する国の行政機関。現在の法務省)に入省。フランス語の語学力を買われて西欧視察に参加し、先進的な司法制度のあり方を学びました。帰国後は司法官僚として「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)ら明治政府の要人を補佐するかたわら、日本における初の近代憲法「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)の草案作りに尽力。他にも井上毅は数多くの法案、「詔勅」(しょうちょく:天皇が公に発する文書の総称)を起草しています。いずれも新しい日本の枠組みとなるもので、井上毅は「明治国家形成のグランドデザイナー(全体構想の作成者)」とも呼ばれました。
1843年(天保14年)、熊本藩(くまもとはん:現在の熊本県熊本市)の下級武士の家に生まれた井上毅は、幼い頃から家事をしながら読書は欠かさず、熊本藩内でも秀才として注目されていました。やがて熊本藩の家老(かろう:藩の重職)「長岡監物」(ながおかけんもつ)に見いだされ、長岡家の私塾「必由堂」(ひつゆうどう)で学ぶことが許可。その後、藩校「時習館」(じしゅうかん)では給付(きゅうふ:支給金)付き学生に選抜されるほど優秀でした。
1867年(慶応3年)、井上毅は熊本藩の命令で江戸・長崎に留学。フランスの文化・歴史全般・フランス語などを習得します。明治維新後は「大学南校」(だいがくなんこう:明治時代初期の官立学校。現在の東京大学)で学び、1871年(明治4年)に設置された司法省に入省。こうして、明治政府の役人となりました。
フランス語が堪能だった井上毅は、1872年(明治5年)に「西欧使節団」(せいおうしせつだん)の一員として渡欧。使節団の目的は、国づくりに参考となる西欧諸国の司法制度・法律を学ぶことで、主にフランス・ドイツを中心に調査しました。
このとき、先進的な法理論に触れた井上毅は、今後整備する日本の法律は、西欧の法律を真似るのではなく、日本固有の文化・習慣に合わせ、従来の法律を踏襲した内容にすべきと考えるようになります。
明治維新後、明治政府の主要ポストは、旧薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)、土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)、肥前藩(現在の佐賀県佐賀市)といった「薩長土肥」(さっちょうどひ)出身者が独占。
その上で内部抗争を繰り返し、安定した政権とは言えませんでした。また、「徴兵制」(ちょうへいせい:国民の義務として兵役に就く制度)、増税で生活が苦しくなった平民(へいみん:旧農工商層)、生活に行き詰まった士族(しぞく:旧武士層)達も明治政府を批判するようになります。
そうした背景から、1870年代半ばには「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう:国会設立を目的とした政治運動)が活発化。危機感を持った明治政府は、自由民権運動を弾圧するために、言論・集会を取り締まる条例を成立させますが、自由民権派活動家の勢いは増す一方でした。
1881年(明治14年)、北海道開拓のための施設を、明治政府要人が政商(せいしょう:政府と癒着した豪商)へ安価で払い下げようとした件が新聞に掲載されて大問題に。この一件が明るみに出ると、明治政府内では、誰が情報を外部に漏らしたかについて様々な憶測が流れました。
真相は現在も闇の中ですが、伊藤博文は、施設払い下げに反対していた「大隈重信」(おおくましげのぶ)が関与したとして、大隈重信の部下とともに罷免(明治十四年政変:めいじじゅうよねんせいへん)。実はこのとき、伊藤博文を背後で操ったのが井上毅とされます。
井上毅は、西欧視察で共和制(選挙で選ばれた人が国の指導者を務める制度)の国ではなく、国王自ら国を率いるドイツ憲法を手本に、日本の憲法を制定しようと考えていました。そんな井上毅にとって、共和制を主張する大隈重信は邪魔な存在。
その一方で、国民の怒りを静めるには、自由民権派が求めている、国会の開設を決断するしか道はないと判断した井上毅は、1890年(明治23年)に国会の設置を国民に約束するよう伊藤博文に進言。こうして、1881年(明治14年)に天皇の言葉として発令されたのが「国会開設の詔」(こっかいかいせつのみことのり)でした。そして、この文書を起草したのが井上毅だったのです。
伊藤博文は井上毅の進言にしたがって、ドイツ・オーストリアといった立憲君主国(りっけんくんしゅこく:君主が憲法によって一定の制限を受ける政治体制)の憲法調査を実施し、憲法制定を目指した制度取調局を設置。
井上毅は「伊東巳代治」(いとうみよじ)とともに、本格的に憲法草案の作成に着手しました。井上毅は憲法草案を作るために、欧米諸国の法律だけでなく、日本の「古事記」(こじき)、「日本書紀」(にほんしょき)、「万葉集」(まんようしゅう)などの古典文学も数多く研究したと言われます。1885年(明治18年)には内閣制度が発足し、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。
各省のトップの役職名を「卿」(きょう)から「大臣」(だいじん)へと変更するなど、様々な制度改革が行われ、国会開設の準備は着々と進められます。井上毅の草案が完成したのは、憲法発布まであと2年と迫った1887年(明治20年)のこと。
最後の検討作業では、伊藤博文、井上毅に加えて伊東巳代治、「金子堅太郎」(かねこけんたろう)の4人で別荘にこもり、激論が交わされました。
1889年(明治22年)2月11日、日本初の近代憲法である大日本帝国憲法が発布。憲法と議会を持つことは、先進国の仲間入りを果たした証でもありました。
その後も井上毅は、憲法と同時に発布された「皇室典範」(こうしつてんぱん:皇室のあり方について定めた法律)の他、「教育勅語」(きょういくちょくご:道徳教育の基礎となった天皇の言葉)、「軍人勅諭」(ぐんじんちょくゆ:軍人に向けられた天皇の言葉)なども起草。
「明治国家形成のグランドデザイナー」の名にふさわしく、その後も国家の基礎を次々と形作っていきます。憲法発布の4年後、1893年(明治26年)に第2次伊藤博文内閣の文部大臣に就任した井上毅は、任期途中で病気を発症して辞任。1895年(明治28年)3月17日に逝去しました。