明治時代の重要用語

板垣退助 
/ホームメイト

「板垣退助」(いたがきたいすけ)は、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を残し、「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう:国会開設を目的とした政治運動)に心血を注いだ人物です。土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)藩士の家に生まれた板垣退助は、学問よりも武術の習得に熱心な悪童だったと伝えられています。成人後、土佐藩の要職に就くも藩内の意見と対立し、倒幕論へと傾いていきました。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と軍事同盟「薩土密約」(さっとみつやく)を結び、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう:明治政府と旧江戸幕府軍との戦争)では、司令官として活躍します。ところが、戊辰戦争中に民衆の姿に触れると、一般の人々の意見が反映される国家を目指し、自由民権運動を推し進めることを決意。「国会をつくった男」とも言われる板垣退助の一生を振り返り、逸話とともに紹介します。

明治時代の重要用語

板垣退助 
/ホームメイト

文字サイズ

「板垣退助」(いたがきたいすけ)は、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を残し、「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう:国会開設を目的とした政治運動)に心血を注いだ人物です。土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)藩士の家に生まれた板垣退助は、学問よりも武術の習得に熱心な悪童だったと伝えられています。成人後、土佐藩の要職に就くも藩内の意見と対立し、倒幕論へと傾いていきました。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と軍事同盟「薩土密約」(さっとみつやく)を結び、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう:明治政府と旧江戸幕府軍との戦争)では、司令官として活躍します。ところが、戊辰戦争中に民衆の姿に触れると、一般の人々の意見が反映される国家を目指し、自由民権運動を推し進めることを決意。「国会をつくった男」とも言われる板垣退助の一生を振り返り、逸話とともに紹介します。

板垣退助の生涯

土佐藩で生まれ、戊辰戦争で活躍

板垣退助

板垣退助

1837年(天保8年)、板垣退助は土佐藩の上級武士の長男として誕生。幼名は「猪之助」(いのすけ)で、勉強よりも喧嘩・相撲ばかりに夢中になる、わんぱくな子どもだったと伝えられています。

20代の頃は土佐藩15代藩主「山内容堂」(やまうちようどう)の側用人などを務めていましたが、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)による「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府が政権を朝廷へ返上すること)に賛同する土佐藩とは考えを異にし、対立を深めます。

やがて板垣退助は倒幕派として薩摩藩の西郷隆盛らと行動をともにするようになるのでした。1867年(慶応3年)5月、板垣退助は京都で、西郷隆盛と倒幕のための軍事同盟・薩土密約を結び、土佐藩に帰って戦の準備を進めます。

1868年(慶応4年)1月に戊辰戦争が始まると、土佐藩軍を率いて京都から美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)、さらには甲府(こうふ:現在の山梨県甲府市)、会津(あいづ:現在の福島県会津若松市)まで進軍して、旧江戸幕府軍を攻撃。「白河小峰城」(しらかわこみねじょう:福島県白河市)、「会津若松城」(あいづわかまつじょう:福島県会津若松市)を攻め、落城させました。この戊辰戦争中、板垣退助は武士が戦いを行う陰で、多くの民衆が逃げ惑う様子を目の当たりにし、心を動かされることに。

この経験から「強い国家のためには身分に関係なく国民が政治に参加し、団結すべきだ」と考えるようになったとされます。このときに芽生えた思いが、のちの自由民権運動へとつながっていったのです。戊辰戦争で大活躍した板垣退助は、1871年(明治4年)に明治政府に参議(さんぎ:明治政府の重職)として就任します。

その後、1881年(明治14年)、国会開設の詔(みことのり:天皇の言葉)が出され、日本で初の政党となる「自由党」(じゆうとう)が発足。板垣退助は自由党の党首に就任し、翌1882年(明治15年)には東海道遊説(ゆうぜい:政治家が演説して回ること)として静岡(しずおか:現在の静岡県静岡市)・浜松(はままつ:現在の静岡県浜松市)・名古屋(なごや:現在の愛知県名古屋市)・岐阜(ぎふ:現在の岐阜県岐阜市)を訪れます。

このとき起こった「岐阜事件」(ぎふじけん)が、板垣退助が襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残したとされる有名な事件です。

自由民権運動の始まり

征韓論で対立した政治家が政界を去る

自由民権運動が始まるきっかけとなったのが、1873年(明治6年)に起こった「明治六年の政変」(めいじろくねんのせいへん)です。明治六年の政変とは、征韓論(せいかんろん:李氏朝鮮[14~19世紀の朝鮮王朝]への開国を迫った強硬論)派の政治家・官僚・軍人達が大量に辞職し、明治政府から去った事件のこと。

参議だった板垣退助もそのうちのひとりで、李氏朝鮮に対して武力で開国を迫るよう主張して、同じく参議の「岩倉具視」(いわくらともみ)、「大久保利通」(おおくぼとしみち)らと対立。李氏朝鮮への交渉がかなわなくなってしまい、失望した板垣退助、西郷隆盛らは明治政府を去っていきました。

明治政府を下野(げや:官職を辞め、民間人となること)した人々は、様々な手段で明治政府に対抗。西郷隆盛は薩摩へ戻り、私学校を設立しますが、その後士族(しぞく:旧武士層)反乱である「西南戦争」(せいなんせんそう)を起こすことになるのでした。

自由民権運動を推し進める

自由民権運動の演説会の様子 (「絵入自由新聞」挿絵)

自由民権運動の演説会の様子
(「絵入自由新聞」挿絵)

一方、板垣退助は1874年(明治7年)、土佐へ戻り、旧土佐藩出身の幼なじみ「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)ら同志を集めて「愛国公党」(あいこくこうとう)を創設。自由民権運動を推し進める体制を整えていきます。

自由民権運動とは、国民による政治を目指した運動で、国民が選挙によって政治参加をし、国会をつくるべきという意見を掲げていました。板垣退助は一部の政治家だけが牛耳る、明治政府の政治を強く批判したのです。

五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん:明治政府の基本方針)のひとつである「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という文言を理由に、民衆の意見が反映される議会制政治(ぎかいせいせいじ:審議を経て法律を制定する議会が担う政治)を目指し、「民撰議院設立建白書」(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を左院(さいん:立法機関)へ提出。

これは、平民(へいみん:旧農工商身分)に参政権を与え、議会の開設などの要望をまとめたもので、愛国公党を創設してからわずか5日後に出されています。板垣退助の主張・運動は明治政府から弾圧されますが、諦めることなく、私財を投げ打ちながら自由民権運動に身を投じ、全国で遊説を行い続けるのでした。

板垣退助の名言

「板垣死すとも自由は死せず」。この有名な言葉は、どのように生まれたものでしょうか。1882年(明治15年)、板垣退助は遊説先の岐阜で刺客に襲われます。この事件と板垣退助の発言について記載されているのは、御嵩(みたけ:現在の岐阜県可児郡御嵩町)警察署に提出された「探偵上申書」です。

この書によると、板垣退助が遊説会場の玄関先で何者かに襲われ、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」との発言をしたとのこと。

また、別の記録によると刺客に対して「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑いながら言い放ったということも残されており、これらの言葉が人々に語り継がれるなかで「板垣死すとも自由は死せず」という表現になったのではないかと言われています。

板垣退助はこの事件において一命を取りとめ、暗殺未遂に終わりました。1890年(明治23年)には「立憲自由党」(りっけんじゆうとう:愛国公党、自由党の流れをくむ政党)総裁(そうさい:党首)となり、第2次伊藤博文内閣、第1次「大隈重信」(おおくましげのぶ)内閣で、内務大臣を歴任。この第1次大隈重信内閣は、大隈重信が総理大臣、板垣退助が内務大臣で組織された「隈板内閣」(わいはんないかく)と言われるものでした。

しかし、内紛によって第1次大隈重信内閣が崩壊すると、1900年(明治33年)に板垣退助は政界を去ることを決意。その後は、機関紙「友愛」(ゆうあい)の創刊などを行うも、1919年(大正8年)に83歳でその生涯を終えました。1948年(昭和23年)と1953年(昭和28年)に、それぞれ板垣退助の紙幣が発行されています。

【国立国会図書館ウェブサイトより】

  • 自由民権運動の演説会の様子 (「絵入自由新聞」挿絵)

板垣退助をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード