明治時代の重要用語

伊藤博文 
/ホームメイト

「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、幕末から明治時代にかけての政治家です。長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)の貧しい農家に生まれますが、父が足軽(あしがる)の伊藤家へ入ったことにより武士身分となります。討幕派の志士(しし:高い志を持つ武士)として活躍したのち、明治政府に出仕。藩閥(はんばつ:長州藩など特定の藩出身者が要職を独占すること)の対立を調整し、敵対する政党と提携するなど、優れた政治手腕で日本が近代国家に生まれ変わるための様々な課題を処理していきます。鎖国を続ける李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)に対して、日本が武力で開国を迫る「征韓論」(せいかんろん)に反対し続けた伊藤博文でしたが、皮肉なことに最後は、大韓帝国(だいかんていこく:李氏朝鮮が改名した帝国、通称・韓国)の活動家によって暗殺されてしまいました。

明治時代の重要用語

伊藤博文 
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「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、幕末から明治時代にかけての政治家です。長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)の貧しい農家に生まれますが、父が足軽(あしがる)の伊藤家へ入ったことにより武士身分となります。討幕派の志士(しし:高い志を持つ武士)として活躍したのち、明治政府に出仕。藩閥(はんばつ:長州藩など特定の藩出身者が要職を独占すること)の対立を調整し、敵対する政党と提携するなど、優れた政治手腕で日本が近代国家に生まれ変わるための様々な課題を処理していきます。鎖国を続ける李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)に対して、日本が武力で開国を迫る「征韓論」(せいかんろん)に反対し続けた伊藤博文でしたが、皮肉なことに最後は、大韓帝国(だいかんていこく:李氏朝鮮が改名した帝国、通称・韓国)の活動家によって暗殺されてしまいました。

日本の近代化に尽くす

攘夷の志士から倒幕の志士へ

伊藤博文

伊藤博文

1841年(天保12年)に長州藩に生まれた伊藤博文は、私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)で塾長の「吉田松陰」(よしだしょういん)に学び、長州藩の藩論(はんろん:藩の方針)「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国人を排斥するという考え方)運動に若き日を捧げました。

1863年(文久3年)には、長州藩の命令でイギリスへ留学。イギリスとの国力の差を目にした伊藤博文は、開国の重要性に目覚め、帰国後は「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らと挙兵して長州藩の藩政を掌握。以降、長州藩の藩論は攘夷から開国、そして倒幕へと変わっていきました。

1868年(明治元年)に明治政府が樹立すると明治政府に出仕し、政治改革案を提案するなど、若くして頭角を現します。その後も鉄道の建設・貨幣制度改革などを進め、1871年(明治4年)には「岩倉具視」(いわくらともみ)、「大久保利通」(おおくぼとしみち)らと欧米諸国の視察を行うメンバーにも抜擢されました。

自由民権運動を主導する

2年後の1873年(明治6年)に欧米諸国の視察から帰国すると、明治政府内では征韓論の議論で持ち切りでした。

伊藤博文は李氏朝鮮を武力で開国させることに反対し、征韓論を唱える「西郷隆盛」(さいごうたかもり)らを退け、明治政府内の改革により、33歳の若さで工部卿(こうぶきょう:近代国家の社会基盤整備、殖産興業を推進する官庁の大臣)に就任。1878年(明治11年)に大久保利通が暗殺されると、伊藤博文が明治政府の中枢を担う人物になります。

当時、旧薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)と長州藩出身者による藩閥政治への不満から、国会を設立し選挙で選ばれた議員による政治を目指した「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)が盛り上がっていました。

伊藤博文は、急進的な「立憲体制」(りっけんたいせい:政権が実質的に憲法によって制限される体制)を目指す「大隈重信」(おおくましげのぶ)を明治政府から追放すると同時に、1890年(明治23年)に議会開設を約束する詔(みことのり:天皇の名で出される文書)を発表。自由民権運動を過激化させず、着実に立憲体制へ移行するという伊藤博文の見事な舵取りでした。こうして、日本が近代国家へ生まれ変わる道筋を立てていったのです。

内閣総理大臣時代

第1次伊藤博文内閣

1885年(明治18年)、内閣制度を創設した伊藤博文は、自ら初代総理大臣に就任。薩摩・長州両藩出身者を中心に第1次伊藤博文内閣を組織すると、議会開設に備えた官僚組織の構築、市制・町村制の整備、小学校令から帝国大学令にいたる学校令の制定など、国家の基礎作りを精力的に進めました。

また「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)、「皇室典範」(こうしつてんぱん:皇室に関する法律)の作成を手がけ、1888年(明治21年)には審議のために「枢密院」(すうみついん:天皇が意見を求める機関)を新設。伊藤博文は総理大臣を辞任して枢密院議長となり、各草案の審議を進めました。

そして1890年(明治23年)、「第1回帝国議会」(ていこくぎかい)が開設されます。議会は現在と同じ二院制で、下院(かいん)にあたる「衆議院」(しゅうぎいん:一般庶民から選出)と、上院(じょういん)にあたる「貴族院」(きぞくいん:華族[旧貴族・大名層]から選出)で構成されていました。伊藤博文は初代貴族院議長に就任し、のちに「山縣有朋」(やまがたありとも)、「松方正義」(まつかたまさよし)の両内閣を補佐しています。

第2次伊藤博文内閣

1892年(明治25年)、伊藤博文は再び内閣総理大臣に就任し、第2次伊藤博文内閣を組織。明治政府に出仕して以降、伊藤博文は一貫して、幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約改正のために、様々な施策を実施してきました。

しかし国民のなかには、条約改正の手段である「欧化政策」(おうかせいさく:日本が文明国であることを欧米諸国へ示すために行った諸政策)に反対し、あくまでも強硬的な外交姿勢を貫くべきと主張する「対外硬派」(たいがいこうは)もいたのです。

そんな国内情勢のなか、伊藤博文は欧米諸国と粘り強い交渉を続け、1894年(明治27年)7月、「日英通商航海条約」(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)を調印し、関税自主権(かんぜいじしゅけん:自国の関税を自主的に制定する権利)の一部回復に成功。

その直後、日本と清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)との間に勃発した「日清戦争」(にっしんせんそう)では、「挙国一致」(きょこくいっち:国民全体が一丸となること)体制で戦争に突入。しかし、翌1895年(明治28年)に清と結んだ「下関条約」(しものせきじょうやく:日清戦争後の講和条約)調印直後に「三国干渉」(さんごくかんしょう:ロシア帝国・ドイツ・フランスによる日本への勧告)を受けて、清より譲り受けた遼東半島(りょうとうはんとう)の返還を余儀なくされ、再び対外硬派からの激しい批判を受けることになったのです。

第3次・4次伊藤博文内閣

当時の帝国議会は、「板垣退助」(いたがきたいすけ)が率いる「自由党」(じゆうとう)と、大隈重信の「立憲改進党」(りっけんかいしんとう)が二大政党で、国会運営には両党との調整が不可欠でした。

1898年(明治31年)1月に、伊藤博文は第3次伊藤博文内閣を組織しますが、自由党と「進歩党」(しんぽとう:立憲改進党が改名)との提携に失敗し、同年6月には総辞職。その後、伊藤博文は清を訪れ、欧米諸国がどれほど清国内の土地・利権をはく奪しているかという実態にショックを受けます。

帰国後、日本が一体となって欧米諸国に向き合わねばならないと考え、1900年(明治33年)に自ら政党「立憲政友会」(りっけんせいゆうかい)を結成。10月には第4次伊藤博文内閣を組織しましたが、閣内で対立が起こり、翌1901年(明治34年)にはまたしても総辞職となりました。

韓国総監府初代総長

以降、伊藤博文は立憲政友会の総裁として活動するかたわら、「元老」(げんろう:天皇を補佐し、重要政務の決定に助言を行う重臣)として海外との折衝にあたりました。特にロシア帝国との関係では、1904年(明治37年)の「日露戦争」(にちろせんそう)開戦直前から戦後まで、すべての局面での交渉に関与。

大国・ロシア帝国との争いで、結果的に日本側の有利に持ち込むことに成功します。1905年(明治38年)には新設された「韓国統監府」(かんこくとうかんふ:日本による朝鮮半島支配のために韓国へ置かれた統治機関)の初代総長に就任。

伊藤博文自身は、以前、征韓論に反対したように、韓国を日本に併合することには反対でした。しかし立場上、韓国側の民族運動の標的になってしまいます。1909年(明治42年)に統監を辞任して枢密院議長に復帰。同年、日露関係の調整のため満州(まんしゅう:中国の北東部)へ渡った際、現地のハルピン駅で韓国の活動家「安重根」(あんじゅんぐん)によって暗殺されてしまいました。

伊藤博文の逸話

衣食住は気にしない

数多くの政敵との関係を調整し、日本に政党政治を根付かせた伊藤博文ですが、実生活では細かいことをまったく気にしない性格でした。

特に衣食住に執着がなく、神奈川県の大磯で隣に住んでいた政治家「西園寺公望」(さいおんじきんもち)は、伊藤博文から食事に招かれるたび、食卓があまりに粗末なことに驚いています。内閣総理大臣の在任中も自室の装飾にはまったく関心がなく、誰かから高価な物品をもらっても、惜しげもなく他人に与えてしまっていたほど。

首相官邸の掃除が行き届いていなくても気に留めなかったため、首相官邸の使用人達は、伊藤博文が内閣総理大臣になると知ると大いに喜んだとされています。

英雄色を好む

伊藤博文の女性好きは、当時は誰もが知っていました。あまりに芸者遊びが激しかったため、122代「明治天皇」(めいじてんのう)から少し慎むようにと注意されています。

地方へ赴いた際には、その土地一番の芸者ではなく、二番手・三番手の芸者を指名するのが伊藤博文の流儀でした。これは、一番の芸者には必ず土地の有力者が付いており、地元でトラブルを起こさないため、あえて指名しないというこだわり。

他にも、風邪を引き高熱を出したにもかかわらず、両側に2人の芸者をはべらせて酒を飲んだという豪快な逸話も残っています。

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