明治時代の重要用語

岩倉使節団 
/ホームメイト

「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)とは、1871年(明治4年)11月12日から約1年10ヵ月にわたり、右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)を大使としてアメリカ・ヨーロッパへ派遣された大使節団のことです。視察の目的は大きく2つ。当時、日本が抱えていた最大の外交課題である幕末時に締結された不平等条約の改正と、国内近代化を進めるための米欧先進諸国の制度・文化の視察。一行は岩倉具視以下、総勢107名にも及ぶ大規模なもので、のちに近代日本の女子教育の先駆者となる「津田梅子」(つだうめこ:津田塾大学の創始者)ら5名の若い女性を含む留学生が約60名 加わっていたことも、日本の歴史における岩倉使節団の大きな特徴でした。

明治時代の重要用語

岩倉使節団 
/ホームメイト

文字サイズ

「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)とは、1871年(明治4年)11月12日から約1年10ヵ月にわたり、右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)を大使としてアメリカ・ヨーロッパへ派遣された大使節団のことです。視察の目的は大きく2つ。当時、日本が抱えていた最大の外交課題である幕末時に締結された不平等条約の改正と、国内近代化を進めるための米欧先進諸国の制度・文化の視察。一行は岩倉具視以下、総勢107名にも及ぶ大規模なもので、のちに近代日本の女子教育の先駆者となる「津田梅子」(つだうめこ:津田塾大学の創始者)ら5名の若い女性を含む留学生が約60名 加わっていたことも、日本の歴史における岩倉使節団の大きな特徴でした。

岩倉使節団の背景

当初の目論見は、不平等条約の改正

日米修好通商条約」をはじめ、日本が幕末に欧米諸国と結んだ条約「安政の五ヵ国条約」は、日本にとっては不利となる条項があるものでした。

例えば、14条からなる日米修好通商条約。大きくは、日本の5ヵ所の港(横浜・長崎・新潟・兵庫・函館)にアメリカの船が出入りし、貿易をすることを認めた条約ですが、そのなかに、「領事裁判権」を認め、日本の法律の及ばない治外法権(ちがいほうけん)の特権を外国人に与えること、また関税についても日本側に関税自主権を認めず、相互で協定して決める「協定関税制」という内容が盛り込まれていました。

そこで、明治政府は、廃藩置県直前の1871年(明治4年)5月に条約改正の意向を諸外国政府に表明。これは、不平等条約改正の好機が到来していたと判断したためです。その根拠は、日米修好通商条約の第13条にありました。

「1872年7月4日をもって、日米両国いずれかの希望により、1年前に事前通知を出すことにより、本条約、神奈川条約の有効部分、及びその付属契約、関連添付等は両国の定めた委員会によって修正を可能とする」と記されており、岩倉使節団は、当初この条文を根拠に、本格的な条約改正を目指すため派遣されることとなっていたのです。

しかし、この明治政府の意に反して、諸外国の条項改正への反応は非常に鈍く、交渉に時間がかかることが判明。この厳しい状況を踏まえ、将来的な条項改正に向けて、まずは諸外国と親善を図ることが重要であると判断。今回の岩倉使節団の目的は、「国際親善」・「西洋文化の調査」と位置付けられたのです。

岩倉使節団の概要

豪華メンバーの選出

岩倉具視

岩倉使節団のリーダー「岩倉具視」

岩倉使節団は大使節団でした。そのリーダーは、特命全権大使に任命された右大臣・岩倉具視

そして特命全権副使に、参議「木戸孝允」(きどたかよし)、大蔵卿(おおくらぎょう:大蔵大臣)「大久保利通」(おおくぼとしみち)・工部卿(こうぶぎょう:近代工業化を進める省庁の大臣)「伊藤博文」(いとうひろぶみ)・外務小輔(がいむしょう:外務省の副大臣)「山口尚芳」(やまぐちなおよし)の4名。

これら明治政府の首脳と呼べる面々に率いられ、総勢107名にも及ぶ大規模なもの。さらに、他に5名の若い女性を含む留学生が約60名加わっていました。

岩倉使節団の記録

岩倉使節団は、1871年(明治4年)11月に横浜港を出港し、1873年(明治6年)9月に帰国するまで、12ヵ国、120の都市・村落を訪れ、各地で政治・行政・軍事・外交・経済・産業・教育・宗教・交通・通信・文化・娯楽まで、西洋文化のあらゆる分野を見聞し調査。

その膨大な記録は、使節団の大使事務局により、「大使書類」という形で編纂されました。また、「米欧回覧実記」が太政官(だじょうかん:明治政府の最高機関)の記録官によって編纂され、1878年(明治11年)に刊行されています。

「留守政府」の存在

岩倉使節団に明治政府の首脳陣が選出された一方、残された政府高官達は「留守政府」と呼ばれました。留守政府は「三条実美」(さんじょうさねとみ)を首班(しゅはん:リーダー)とし、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)・「板垣退助」(いたがきたいすけ)、「大隈重信」(おおくましげのぶ)・「江藤新平」(えとうしんぺい)、「井上馨」(いのうえかおる)らで構成。

この留守政府において、わずか2年で様々な大改革を実行します。「四民平等」(しみんびょうどう:旧士農工商身分の平等化)の実現・徴兵令と学制の施行・司法整備・太陽暦への改暦(かいれき)など。また、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)・李氏朝鮮・ロシア帝国など近隣諸国との国交樹立の交渉にも、留守政府は精力的に取り組みました。

岩倉使節団の逸話

若干6歳の津田梅子が岩倉使節団に参加

津田梅子

津田梅子

2024年(令和6年)発行予定の新札でも話題の、日本の女子教育の先駆者・津田梅子は、近代日本における女性の自立を目指した人物として知られています。

津田梅子は、岩倉使節団の女子留学生5人のうちのひとりとして派遣されましたが、当時、満6歳(アメリカ到着時は満7歳)。

当初、留学生に女性を含める予定はなかったものの、先に欧米を視察した北海道開拓使次官「黒田清隆」(くろだきよたか)が、「優れた人材を育てるためには、家庭に教養がある母親が必要」と明治政府に訴えたことで急遽、女性を含めた公募が決まります。

津田梅子の父は、文明開化政策を積極的に支持するなど、進取の気風に富んだ旧佐倉藩(さくらはん:現在の千葉県佐倉市)藩士で、幕末に江戸幕府使節に随行して渡米経験もある人物。岩倉使節団の公募があることを知り、娘の津田梅子に応募させたのです。

聖徳記念絵画館」(しょうとくきねんかいがかん:東京都新宿区)には、岩倉使節団の出航の様子を描いた「岩倉大使欧米派遣」(いわくらたいしおうべいはけん)が展示されています。横浜港に停泊するアメリカ号や乗船者・見送りの人々を描いたものですが、その絵画の右下の船に、赤い着物を着た6歳の津田梅子も描かれています。

アメリカに渡った津田梅子は、日本弁務官書記(現在の日本公使館秘書)を務める「チャールズ・ランマン」のもとに預けられました。子どもがいなかったランマン夫妻は、梅子を実子のように可愛がり、どんな支援も惜しまなかったと言われています。

たっぷりと愛情を受けた津田梅子は、聡明で誠実な女性へと成長。12歳になるとランマン家にある本を手当たり次第に読むようになるなど、学問に目覚めた津田梅子は、留学から11年後の1882年(明治15年)、私立の女学校「アーチャー・インスティチュート校」を優秀な成績で卒業したのち、帰国しました。

そのあと、津田梅子は、生涯独身で女子英語教育に力を尽くします。1900年(明治33年)、「女子英学塾」(じょしえいがくじゅく、のちの津田塾大学[つだじゅくだいがく]:東京都千代田区)を創立し、職業人として自立できる英語力を身に付けることを目標に、後進の指導にあたりました。ここから、のちに日本女性初の社会主義者となる「山川菊枝」(やまかわきくえ)らが巣立っていったのです。

岩倉使節団をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード