平安時代末期、朝廷の最高権力者「後白河法皇」(ごしらかわほうおう:77代・後白河天皇が譲位後に出家した際の尊号)と、伊勢平氏(いせへいし:50代・桓武天皇[かんむてんのう]の皇子・葛原親王[かずらわらしんのう]を祖とする武家)の棟梁「平清盛」(たいらのきよもり)は、水面下で激しい権力争いを繰り広げていました。1179年(治承3年)、後白河法皇は平氏に近い「近衛家」(このえけ:摂政や関白を輩出した藤原氏一族)の所領を取り上げるなどして平氏の弱体化を画策。ところが逆に平清盛の猛烈な反撃に遭い、最後は幽閉(ゆうへい:部屋に閉じ込め一切の外出を禁止)されてしまいます。その後、平清盛は80代「高倉天皇」(たかくらてんのう)を高倉上皇とし、その背後から朝廷を支配することに成功しました。平清盛によるこのクーデターは、起きた年号から「治承三年の政変」(じしょうさんねんのせいへん)と呼ばれます。
1179年(治承3年)6月17日、「平盛子」(たいらのもりこ:平清盛の次女)が他界すると、後白河法皇の反撃が開始されます。
平盛子は当時、「氏長者」(うじのちょうじゃ:藤原一族の所領や財産をすべて管理する人物)の「近衛基実」(このえもとざね)に嫁いでおり、近衛基実が没すると、藤原一族の所領や財産を平盛子が継承。しかしその後、平盛子が他界すると、後白河法皇は平盛子が持っていた藤原氏の所領をすべてはく奪してしまいました。
さらに、近衛家とライバル関係にあり、反・平氏の急先鋒であった松殿家(まつどのけ:藤原氏一族)の「松殿師家」(まつどのもろいえ)を、8歳で「権中納言」(ごんのちゅうなごん:政府最高機関・太政官[だじょうかん]の4番目の位)に任官。これは近衛基実の子で、20歳になる「近衛基通」(このえもとみち)へのあからさまな当て付けでした。
後白河法皇の仕打ちに怒った平清盛は、1179年(治承3年)11月14日、数千の兵を率いて福原(ふくはら:兵庫県神戸市)から上洛(じょうらく:京都へのぼること)。
翌日には京都を制圧して、後白河法皇を武力で威嚇。松殿師家の任官を取り消し、近衛基通の関白への任命を強要します。数千の兵で脅されては、後白河法皇も従わざるを得ませんでした。これで対立は解消されたかと思われましたが、平清盛の行動はますますエスカレート。
11月17日には、後白河法皇に従う役人の官位をはく奪の上、所領を没収し、平氏一族に与えました。これによって、当時の日本66ヵ国のうち32ヵ国が平氏の知行(ちぎょう:支配権を持つ地域)となったと言われます。
その勢いは止まらず、11月18日には松殿基房を「大宰府」(だざいふ:福岡県太宰府市)へ左遷し、他にも後白河法皇の近臣「藤原師長」(ふじわらのもろなが:近衛基実・松殿基房の従兄弟)、公卿「源資賢」(みなもとのすけかた)を追放。
そして11月20日、平清盛は後白河法皇を、離宮「鳥羽殿」(とばどの:京都府京都市)へ幽閉して、後白河法皇の院政を終了させました。
このとき、平清盛は後白河法皇の第三皇子「以仁王」(もちひとおう)の所領も没収。これがのちに、以仁王が全国の源氏に平家打倒を命じる直接の原因となったと言われます。
こうして、後白河法皇の院政が終了したのち、平清盛に操られた高倉天皇が政権を握りました。翌年の1180年(治承4年)2月、高倉天皇は81代「安徳天皇」(あんとくてんのう:言仁親王)に譲位し、高倉上皇となって院政を開始します。
前述の通り、高倉上皇の院政は平清盛に操られたものであり、ついに日本初の武家による政権が誕生。そして、この大きな政治体制の変化を「治承三年の政変」と呼びます。