41代「持統天皇」(じとうてんのう)は「諱」(いみな:本名のこと)を「鸕野讚良皇女」(うのさららひめみこ)と言い、40代「天武天皇」(てんむてんのう)の后(きさき)として政治を助けました。特に天武天皇の晩年は病気がちで、実際に政務を執ったのは鸕野讚良皇女と、息子の「草壁皇子」(くさかべのみこ)でした。当時、天武天皇は草壁皇子を次の天皇にすることを考えていましたが、天武天皇が崩御したのち、草壁皇子まで早世してしまいます。どうしても自分の一族を天皇にしたいと願った鸕野讚良皇女は、草壁皇子の子「軽皇子」(かるのみこ)が成人するまでの中継ぎとして、自分自身が即位することを選びます。こうして、日本で3人目となる女性天皇である持統天皇が誕生したのです。
679年(天武天皇8年)、天武天皇は吉野(よしの:奈良県吉野町)で「私が死んだら、草壁皇子を天皇にせよ」と発表しました。これを「吉野の盟約」と呼びます。
その頃、天武天皇には6名の皇子がいましたが、一夫多妻制の時代ですから、6名はすべて母親が異なっていました。
そのため、誰が天皇位を継ぐかは母親のなかでも最大の関心事だったのです。
事実、天武天皇も皇位を巡って甥の「大友皇子」(おおとものみこ:天智天皇の子)と争った経験があったため、自分の皇子達が争うことがないよう、先に後継者を決めたと考えられます。
当時、皇位を巡る草壁皇子の最大のライバルは天武天皇と「太田皇女」(おおたのひめみこ:鸕野讚良皇女の姉)の子、「大津皇子」(おおつのみこ)でした。
大津皇子は有能で人柄も良く、朝廷内で最も天皇になることを期待された人物。草壁皇子を確実に天皇にするため、鸕野讚良皇女は、天武天皇が崩御した直後、謀反の疑いで大津皇子を自殺に追い込んでしまいます。
しかし、間もなく草壁皇子まで27歳の若さで薨去(こうきょ:もと皇族、三位以上の人の死去を言う)してしまいました。どうしても草壁皇子の血を残したかった鸕野讚良皇女は、今度は草壁皇子の遺児「軽皇子」(かるのみこ)を天皇にしようと考えますが、当時、軽皇子はまだ7歳。
鸕野讚良皇女は、他の皇子が天皇にならないよう、軽皇子が成長するまで自分が天皇となって玉座(ぎょくざ:天皇位のこと)を守り続けようと決意します。こうして690年(持統天皇4年)、持統天皇が誕生しました。
持統天皇は天武天皇の方針を受け継ぎ、中央集権国家確立のための様々な施策を実行しています。即位の前年689年(持統天皇3年)には「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはらりょう)を施行。これは豪族達が所有していた土地と人民をすべて天皇が所有することを定めたもので、本格的な「公地公民」(こうちこうみん)がここから始まったと言われます。
そして持統天皇時代最大のイベントが「藤原京」への遷都です。それまでの都は一代限りで、天皇が崩御すると都を別の場所に遷すのが当たり前でした。
しかし藤原京は、長く使い続けることを前提にした本格的な都城(とじょう)。計画者は天武天皇で、694年(持統天皇8年)に完成し、持統天皇によって遷都が行われました。
697年(文武天皇元年)、持統天皇は成人した軽皇子に譲位し、第42代「文武天皇」が誕生。日本の歴史で初めて、祖母から孫へ天皇の座が継承されました。実は、これと同じことが日本の神話にも書かれているのです。
それは、「天照大神」(あまてらすおおみかみ)が、日本を統治するために子ではなく孫の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を遣わしたという「天孫降臨」の話。これが持統天皇のケースに酷似しているのです。
しかも、持統天皇の直後にも第43代「元明天皇」(げんめいてんのう)から第45代「聖武天皇」(しょうむてんのう)へと、祖母から孫への譲位が行われています。即位したとき元明天皇は高齢であったため、間に第44代「元正天皇」(げんしょうてんのう)が入っていますが、祖母から孫という流れは同じです。
この天孫降臨の話は「古事記」(こじき)と「日本書紀」(にほんしょき)に記されており、古事記の完成は712年(和銅5年)、日本書紀が720年(養老4年)ですから、どちらも持統天皇が文武天皇に譲位してわずか数年後のこと。
つまり天孫降臨とは、日本で初めての「祖母から孫への譲位」という異常事態を正当化するために編纂者が作り出したストーリーだという説を唱える歴史家もいます。
それが本当なら、天照大神が女性でなくてはならないことも説明できます。こうして当時の人々の狙いに思いを馳せるのも、日本史に触れる面白さのひとつなのです。