「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)とは、1873年(明治6年)10月の「明治六年の政変」(征韓論[せいかんろん]を巡る対立により、当時の明治政府首脳・軍人・官僚ら約600名が辞職した事件)で明治政府を去った「板垣退助」(いたがきたいすけ)ら8人によって、ごく一部の官僚主導の政権を批判し、国会開設を求めた「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)をきっかけとして、急速に全国へ広まっていった政治運動です。
明治六年の政変とは、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)との国交樹立を早急かつ強硬に推し進めるべきという「征韓論」(せいかんろん)を巡って、明治政府首脳が分裂。「西郷隆盛」(さいごうたかもり)・板垣退助・「後藤象二郎」(ごうとうしょうじろう)・「副島種臣」(そえじまたねおみ)・「江藤新平」(えとうしんぺい)といった征韓論を主張した政府首脳と賛同する軍人・官僚ら含めた約600名が辞職した出来事です。
明治六年の政変後、明治政府に残った主要メンバーは、「大久保利通」(おおくぼとしみち)・「木戸孝允」(きどたかよし)・「大隈重信」(おおくましげのぶ)・「伊藤博文」(いとうひろぶみ)・「岩倉具視」(いわくらともみ)。
板垣退助と同じく、明治六年の政変で明治政府を去った後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らは、1874年(明治7年)1月12日に、「愛国公党」(あいこくこうとう)という日本最初の政党を結成。この愛国公党のメンバーによって民撰議院設立の建白書が作成され、提出されました。
民撰議院設立の建白書とは、大久保利通らの明治政府を専制的かつ一部の官僚のみが政治を行う体制と批判し、「国会を開き、民意を政治に反映させることが大切である」と議会の開設を提言した、画期的な建白書(けんぱくしょ:意見を記した書状)。この「民撰」とは、「選挙で選ばれた議員」のことを指します。
民撰議院設立の建白書は、1874年(明治7年)1月に、立法の諮問機関である「左院」(さいん)へ提出されました。これは、板垣退助らが明治政府を去った明治六年の政変から、わずか数ヵ月後のこと。
署名者は、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・前東京府知事(とうきょうふちじ:東京都知事に相当)の「由利公正」(ゆりきみまさ)・前大蔵大丞(おおくらたいじょう:大蔵省の4番目の官職)「岡本健三郎」(おかもとけんざぶろう)、そしてイギリス帰りの知識人で、民撰議院設立の建白書・起草者の「古沢滋」(ふるさわしげる)・「小室信夫」(こむろしのぶ)の8名です。
この民撰議院設立の建白書は、提出された翌日の1月18日、日刊新聞「日新真事誌」(にっしんしんじし)に特報としていち早く掲載されました。この衝撃は全国に広まり、大きな反響を呼ぶこととなったのです。
そして民撰議員設立の建白書が出発点となり、これ以後、国民の参政権を確立することを目指した「自由民権運動」が急速に広まっていきました。
その後、愛国公党は1874年(明治7年)8月に自然消滅。「民撰議院設立の建白書」自体も、結果的には明治政府に受け入れられることなく終わりましたが、これを契機に自由民権・国会開設の世論はますます高まっていくのです。
1874年(明治7年)4月、板垣退助は、郷里の土佐(とさ:現在の高知県高知市)で「片岡健吉」(かたおかけんきち)らの同志を集め、「立志社」(りっししゃ)を創設。これを皮切りに、各地で自由民権・国会開設を唱える政治結社が組織されていきました。
さらに、板垣退助達は、各地方の自由民権運動をより大きなものにするため、全国的政治結社「愛国社」を結成。同時期に自由民権論を論じた、新聞・雑誌の発行が相次いだこともあり、自由民権運動は大きなうねりとなって全国各地で激しさを増していきます。
一方、明治政府も動き始めます。木戸孝允・「井上馨」(いのうえかおる)ら旧長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)出身者の間でも、「立憲政体」(りっけんせいたい:憲法を定め、国会を通じて国民が政治に参加する政治体制)に移るべきだという意見が強まり、この両者が大阪で協議を重ねることに(大阪会議)。
1875年(明治8年)3月には、大久保利通もこれに加わり、しだいに立憲政体へ移行することが確約されます。これを受け、「台湾出兵」(たいわんしゅっぺい:沖縄漂流民殺害に端を発した、台湾への軍事行動)に反対して明治政府を去っていた木戸孝允とともに、板垣退助も明治政府へ復帰。
そして、1875年(明治8年)4月に左院を廃止し、新たな立法機関として「元老院」(げんろういん)・「地方官会議」(ちほうかんかいぎ)を、将来の「上院」(じょういん:衆議院に相当)・「下院」(かいん:参議院に相当)の基礎とするために設立しました。また、司法の最高機関として「大審院」(だいしんいん:最高裁判所に相当)を設け、司法独立の一歩とします。
こういった流れのなか、旧薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)出身者による反乱「西南戦争」(せいなんせんそう)の最中の1877年(明治10年)6月、立志社の片岡健吉らは国会開設を求める「立志社建白」(りっししゃけんぱく)を122代「明治天皇」(めいじてんのう)へ上奏(じょうそう:天皇へ意見を申し上げること)しようとしますが、明治政府に却下されます。
また、立志社の一部が西南戦争の反乱軍に加わろうとしたこともあり、国会開設運動は一時、下火になりました。
しかし、1878年(明治11年)、解散状態にあった愛国社の再興大会が大阪で開かれた頃から、士族(しぞく:旧武士層)中心だった民権運動に、豪農・地主・都市の商工業者・府県会議員など平民(へいみん:旧農工商層)も参加するようになったのです。
そして、思想家「植木枝盛」(うえきえもり)が「民権自由論」(みんけんじゆうろん)などの民権思想の啓蒙書を刊行。また、1879年(明治12年)、「福沢諭吉」(ふくざわゆきち)が「国会論」(こっかろん)を刊行したあたりから、慶應義塾出身者を中心とする「交詢社」(こうじゅんしゃ)が穏健な国会開設論を唱えて運動の幅を広げていきました。
1880年(明治13年)には、愛国社の呼びかけにより、各地の代表者が大阪へ集まり、国会開設のための大会を開き、「国会期成同盟」(こっかいきせいどうめい)を結成。目標を国会開設に絞り、各地の政治結社の代表が署名した明治天皇宛ての国会開設請願書を「太政官」(だじょうかん:政府の最高機関)・元老院に提出しようと動きました。
しかし、これを明治政府は受理せず、逆に「集会条例」(しゅうかいじょうれい:政治集会・政治結社の禁止)を定めて、民権派の言論・集会・結社を厳しく抑えにかかったのです。
実は、明治政府内でも、国会の早期開設を求める参議がいました。その筆頭は、大隈重信と伊藤博文。1878年(明治11年)5月に大久保利通が暗殺されると、政府の中心は、大蔵関係のトップである大隈重信と、内務関連を掌握していた伊藤博文の2人になりました。
そして、1881年(明治14年)初めには、大隈重信・伊藤博文・井上馨の3参議(さんぎ:明治政府の要職)が熱海で国会開設について合意する「熱海会議」が開かれます。
しかしその後、時期と内容を巡って、大隈重信と伊藤博文が対立。大隈重信は、福沢諭吉らの意見を取り入れ、国会の即時開設とイギリス流の「議院内閣制」(ぎいんないかくせい:政府の主体となる内閣を議会の信任によって成立させる制度)を主張。
一方、伊藤博文は井上馨の意見を入れ、ドイツ流の君主権の強い「立憲君主制」(りっけんくんしゅせい:君主の権力が憲法によって規制されている政治体制)に時間をかけて移行することを主張。
そんななか、北海道に置かれていた「開拓使」(かいたくし:北海道開拓を管轄する省庁)の官営事業を、藩閥(はんばつ:明治政府の要職を独占した旧長州藩・薩摩藩などの出身者)の商社に安く払い下げようとする「開拓使官有物払下げ事件」が起こり、明治政府を攻撃する世論が高まりました。これを受け、明治政府は払い下げを中止。そして、この世論の動きに関係があるという理由で、大隈重信を罷免。これが「明治十四年の政変」です。
これにより、国会開設の勅諭が下り、1890年(明治23年)に国会を開設することが公約されます。その中心にいたのは伊藤博文で、明治政府は立憲君主制の樹立に向けて準備を進めていきました。
国会開設が約束されると、1881年(明治14年)10月に板垣退助は「自由党」を、1882年(明治15年)3月には大隈重信が「立憲改進党」を結成。自由党は士族が多く急進的で、一方の立憲改進党は知識層が多く比較的穏健派でした。これとともに、1882年(明治15年)3月には明治政府支持の「立憲帝政党」(りっけんていせいとう)も旗揚げされました。
自由党結成の翌1882年(明治15年)、板垣退助は襲撃を受けますが一命を取りとめ、その後、明治政府の働きかけで、1882年(明治15年)11月に渡欧。これは明治政府が自由党の弱体化を図ったものだと言われています。
指導者を欠いた自由党は過激な行動に走り、不況が続く農民達の不満と結び付いた事件もたびたび起こします。事件のなかには、純粋な民権運動と異なるものも少なくありませんでした。
そして板垣退助自身も、渡欧により思想を変化。板垣退助の渡欧は、井上馨が提言したもので、欧州の現状を視察させる目的も持っていました。板垣退助は、自由民権運動の母国・フランスの未熟な政治に幻滅し、イギリスを模範にすべきだと考えるようになったのです。
この思想の変化は、ある意味では明治政府の思惑通りで、自由民権運動そのものを崩していく原因となったとされています。
伊藤博文も、1882年(明治15年)3月から渡欧し、ドイツのプロイセン憲法などを学んで帰国後、本格的な憲法制度策定に取り掛かりました。その後、内閣制度も整備されていき、1885年(明治18年)には伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任します。
一方、自由民権運動では、1887年(明治20年)に旧自由党・立憲改進党が一致団結する「大同団結運動」(だいどうだんけつうんどう)が展開され、「三大事件建白書」(さんだいじけんけんぱくしょ)を明治政府へ提出。
それによって反政府的な機運が高まりましたが、明治政府は、「保安条例」(ほあんじょうれい:自由民権運動を弾圧するための条例)を公布し、即日施行により600人近くを東京から追放するという出来事が起こります。
しかし、明治政府は自由民権派の大隈重信・後藤象二郎を内閣へ入閣させるなど懐柔策も取り、結果的には、「大日本帝国憲法」が1889年(明治22年)に発布されました。そして、1890年(明治23年)に「第1回衆議院議員総選挙」が行われ、「第1回帝国議会」が開催されるのです。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 自由民権運動の演説会の様子 (「絵入自由新聞」挿絵)