安土桃山時代の重要用語

かぶき踊り 
/ホームメイト

江戸幕府が誕生した1603年(慶長8年)、京都の路上で奇抜な格好をして踊る「出雲阿国」(いずものおくに)という女性が話題になりました。当時、奇抜な格好をして社会の常識に反抗する行動を「傾く」(かぶく)と言い、出雲阿国の踊りは「かぶき踊り」と名付けられます。すると、かぶき踊りを真似て同じような踊りを披露する一座があちこちに登場。この芸能は「お国歌舞伎」(おくにかぶき)と呼ばれ、ブームは全国に広がります。その後、江戸幕府から何度も禁止されますが、この芸能を残したいと願う人々の努力と工夫によって形を変えながら継続し、やがて日本を代表する芸能である「歌舞伎」(かぶき)へと発展していったのです。

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役者絵(歌舞伎絵)
有名な歌舞伎のワンシーンや歌舞伎役者を描いた迫力ある役者絵(歌舞伎絵)を紹介します。

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江戸幕府が誕生した1603年(慶長8年)、京都の路上で奇抜な格好をして踊る「出雲阿国」(いずものおくに)という女性が話題になりました。当時、奇抜な格好をして社会の常識に反抗する行動を「傾く」(かぶく)と言い、出雲阿国の踊りは「かぶき踊り」と名付けられます。すると、かぶき踊りを真似て同じような踊りを披露する一座があちこちに登場。この芸能は「お国歌舞伎」(おくにかぶき)と呼ばれ、ブームは全国に広がります。その後、江戸幕府から何度も禁止されますが、この芸能を残したいと願う人々の努力と工夫によって形を変えながら継続し、やがて日本を代表する芸能である「歌舞伎」(かぶき)へと発展していったのです。

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風流とややこ踊り

ルーツは室町時代の「風流踊り」

戦乱の続いた室町時代、都の人々が身分に関係なく一緒に楽しんだ「風流踊り」(ふりゅうおどり)という芸能がありました。これは「応仁の乱」(1467年[応仁元年]~1477年[文明9年])の「御霊会」(ごりょうえ:犠牲者の霊を慰めるための儀式)が次第に大規模になり、やがてお盆の時期に着飾った男女が参加して踊るという芸能に発展していったのです。

この踊りは、16世紀後半に「ややこ踊り」という芸能に発展します。これは加賀(現在の石川県南部)から来た一座が始めたもので、2~3人の子供が舞台で扇を持って踊り、見物客からお金をもらうという「見せる」芸能でした。このややこ踊りはたちまち評判となり、全国から多くの芸人がややこ踊りのために京都に集まることとなったのです。

出雲から来たクニ

こうした一座の中に、出雲からきた「クニ」という名の女性芸人がいました。クニの一座は京都の五条河原や北野天満宮(きたのてんまんぐう:京都市上京区)の境内に舞台を組み立ててややこ踊りを披露。また宮中や貴族の屋敷にも出向いて踊ったという記録が残されています。そしてこのクニが、のちの出雲阿国でした。なお彼女が本当に出雲の出身で、出雲大社の巫女であったかどうかは分かりません。

実は「歩き巫女」(あるきみこ:どの神社にも属さず、全国を放浪した芸能者かつ遊女)であったとする説も存在します。実際のところ、当時の芸能者は家を持たず、河原で生活をしていました。今日でも役者が自分のことを自虐的に「河原乞食」(かわらこじき)などと称するのはその名残だと言われます。

大ヒットしたかぶき踊り

戦国末期のアンチヒーロー

1603年(慶長8年)の春頃、出雲阿国の踊りは京都で大ブームを巻き起こし、かぶき踊りの名で呼ばれるようになりました。最大の特徴は、彼女の奇抜なファッション。当時の京都には「かぶき者」と呼ばれる乱暴者が出没していました。

彼らはまるで女性のように豪華で華やかな衣服を身に着け、水晶の数珠や十字架のネックレスを飾り、長いを「落とし差し」(おとしざし:刀の柄[つか:持ち手の部分]を胸の前まで持ち上げた差し方)にするという変わったスタイルで徒党を組んで大道をねり歩き、堂々と悪事を働いたと言います。

しかし戦国時代が終わろうとしていた時代に、世の中の常識的な価値に反抗した彼らは庶民のアンチヒーローだったのです。

かぶき者の女性版

出雲阿国

出雲阿国

出雲阿国は、かぶき者のスタイルを巧みに踊りの衣装に取り入れます。女性である出雲阿国は男装して刀を差し、首から鏡、あるいはキリスト教のロザリオをぶら下げ、自ら謡いながら笛や鼓に合わせて踊りました。

まさにかぶき者の女性版です。そのため、出雲阿国の踊りは「かぶき踊り」、あるいは「阿国歌舞伎」(おくにかぶき)と呼ばれます。

また彼女の踊りにはストーリーがありました。奇抜な格好をした出雲阿国が町の茶屋を訪れると、茶屋からなよなよとした女性が登場。しかしこの女性、実は武骨なふたりの男性が演じていました。そして出雲阿国が扮するかぶき者は茶屋の女性と酒をくみかわすと、当時琉球(りゅうきゅう:現在の沖縄県)から伝わってきたばかりの三味線に合わせて官能的な振りで踊り続けるのです。

このエロティックな踊りは京都の人々の度肝を抜き、あっというまに出雲阿国は京都のアイドルになりました。すると、すぐに同じような芸を見せる一座が各地で誕生していきます。

遊女歌舞伎の誕生

かぶき踊りの大ヒットを見て、これを商売に結び付けようとした人物がいました。それが、京都の遊女屋の経営者「佐渡島正吉」(さどしましょうきち)です。佐渡島正吉は四条河原の盛り場に舞台を設け、店の遊女にかぶき踊りを踊らせて客を集めようと考えました。

しかも、この舞台に木戸銭(きどせん:入場料)を取れば、お店の宣伝だけでなく、興行収入も期待できます。こうして生まれたのが「遊女歌舞伎」(ゆうじょかぶき)。この踊りが評判になると、同様の舞台が各地に誕生しました。しかし1629年(寛永6年)、風紀が乱れるという理由で、遊女歌舞伎は幕府から全面的に禁止されてしまいます。

かぶき踊りから「歌舞伎」へ

若衆歌舞伎の誕生

遊女歌舞伎が禁止されても、なんとか興行を打って客を集めたいと願う興行主は、次々と新しい踊りを考案しました。そのひとつが「若衆歌舞伎」(わかしゅかぶき)です。これは「元服」(げんぷく:成人すること)前の美少年による踊りのパフォーマンス。成人の証しであるまげを結わず、前髪を残したまま踊る姿が、当時はとてもエロティックだったのです。こちらも1652年(承応元年)に幕府から禁止されてしまいますが、ふたつの条件つきで許可されました。

ひとつめの条件は、女性を舞台に上げず、曲げを結った成人男性だけの「野郎歌舞伎」(やろうかぶき)であること。若衆のシンボルである前髪を剃らせることで、幕府は従来のようなエロティックさをなくそうとしたのです。

もうひとつの条件が、踊るだけでなく「物真似狂言」(ものまねきょうげん)とすること。狂言とは中世の伝統芸能で、面を付けて舞う「能」とは異なり、面を付けずにセリフ中心で展開する舞台。つまり、猥雑な踊りではなくきちんとストーリーで観客を楽しませる演劇であれば演じても良いという条件でした。

女性らしさの追求

このとき問題になったのは、成人男性が女性をどうやって演じるかということでした。以前は単なる踊りでしたから、「美男鬘」(びなんかづら:狂言で、女性役が用いるかぶり物)があればよかったのですが、演劇となると様々な身分・年齢・職業の女性を演じ分けなくてはなりません。

しかも、当時はまだ今日のような「鬘」(かつら)もありません。そこで、女性を演じる役者は額に白い手ぬぐいを置いたり、特殊な頭巾をかぶったりして女性を表現しました。

そして、小さな仕草の一つひとつでも女性らしさを表現するようになっていきます。こうして、出雲阿国が始めたかぶき踊りは、男性だけで演じる日本独自の演劇、「歌舞伎」(かぶき)へと進化していったのです。

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