「柿本人麻呂」(かきのもとのひとまろ)は飛鳥時代の歌人で、「万葉集」(まんようしゅう:7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存する日本最古の歌集)第一の歌の名手と評されています。41代「持統天皇」(じとうてんのう)の時代を中心に活躍し、「三十六歌仙」(さんじゅうろっかせん:和歌の名人36人)にも選出されたほどの歌人でした。後世にて、「勅撰和歌集」(ちょくせんわかしゅう:天皇の命令により作られた歌集)の序文で、編纂者のひとりであった「紀貫之」(きのつらゆき:平安時代の代表的歌人)から「歌の聖」(ひじり:聖人)と讃えられるほどでしたが、その生涯は謎に包まれています。
柿本人麻呂は、宮廷歌人として天皇や皇子達を讃える歌を数多く詠みました。万葉集では、「大君は神にしませば天雲のいかづちの上にいおりせるかも」(わが天皇は神でいらっしゃるので、雨雲の雷の上に住まいを造られた)と天皇を大絶賛しています。
また「挽歌」(ばんか:人の死を悲しみ悼む歌)や「相聞歌」(そうもんか:互いにやり取りする歌)など幅広いジャンルの歌も詠みました。40代「天武天皇」(てんむてんのう)の息子で、次の天皇と期待されていた「草壁皇子」(くさかべのみこ)が27歳の若さで亡くなったとき、柿本人麻呂は65句からなる挽歌を詠んで追悼しています。
また、柿本人麻呂が草壁皇子の遺児である「軽皇子」(かるのみこ)に随行して奈良県宇陀(うだ)を訪れたとき、「ひむがしの野にかぎろいのたつ見えて かえりみすれば月かたぶきぬ」(東方の野に夜明け前の光が見え、振り返ると月は西に傾いている)と、草壁皇子を偲んで眠れぬ夜を過ごした気持ちを表現しました。
この歌は、万葉集のなかでも秀作のひとつに数えられています。
万葉集には、柿本人麻呂の作とされる「長歌」(ちょうか:和歌の形式のひとつで、五七を3回以上繰り返し最後に七音を加える)が19首、「短歌」(たんか:五七五七七で詠まれる)75首が掲載されています。
その特徴は、「枕詞」(まくらことば:特定の語の前に置いて語調を整える情緒を添える言葉)などを巧みに使った格調高い歌風。とりわけ短歌では140余りの枕詞を使い分けました。
「百人一首」(ひゃくにんいっしゅ:代表的歌人100人の歌を1首ずつ集めた歌集)のなかにも、有名な「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む」(山鳥の尾のように長い夜をひとり寂しく寝るのだろうか)が収載されています。
しかし、この歌は柿本人麻呂の作ではないという根強い説があることも事実。作者不詳であったにもかかわらず、後世の人が「こんな素晴らしい歌は柿本人麻呂の作品に違いない」と判断した可能性があるというのです。
歌の聖人と讃えられた柿本人麻呂の伝説化は万葉集の時代にはすでに始まっていました。そして時代を経て、神として崇められるまでになっていきます。
奈良県葛城市(かつらぎ)の「柿本神社」(かきのもとじんじゃ)や、兵庫県明石市(あかし)の「人丸神社」(ひとまるじんじゃ)など、柿本人麻呂を祀った神社は全国に150社以上も存在しています。
なかには人麻呂を「火止まる」(ひとまる)、「人生まる」(ひとうまる)と解釈し、防火や安産の神として崇めている神社も。
柿本人麻呂は歌の神としてだけでなく、様々な信仰の対象となっていきました。さらに時が経つと伝承はどんどん肥大化し、最後には十一面観音の化身と言われるまでになります。
そして柿本人麻呂の命日が3月18日であるのも、観音様の縁日である18日と結び付けて定められたという話もあるほど。まさに歌の聖、柿本人麻呂ならではの伝説です。