日本の寺院には、寺院の宗教的地位や社会的地位により、政府(朝廷・幕府)から与えられる「寺格」(じかく)という等級があります。なかでも特別に格式の高い5つの寺院には「五山」(ござん)という寺格が与えられました。日本ではまず鎌倉時代に「鎌倉五山」が制定され、南北朝時代(なんぼくちょうじだい:朝廷が南朝と北朝に分かれて対立した時期)に「京都五山」が制定されました。ここでは、鎌倉五山について説明します。
五山のルーツは南宋(なんそう:12世紀に中国南部に成立した王朝)時代の中国。南宋政府がインドの五精舎(ごしょうじゃ:釈迦が説法をした5つの修行場)に倣って国内5つの寺院を選び、特別な保護を与えたことに由来します。
これが13世紀半ばに日本に伝わり、1299年(正安元年)に9代執権(しっけん:鎌倉時代に将軍を補佐した、実質的な幕府の最高権力者)の「北条貞時」(ほうじょうさだとき)が「浄智寺」(じょうちじ)を鎌倉五山と称したのが史料における五山の初登場でした。
その後も鎌倉五山には、当時隆盛となった禅宗(ぜんしゅう:座禅による修行を重視する仏教の一派)寺院が加わりましたが、詳細は諸説あってはっきりとしたことは分かっていません。
鎌倉幕府は、12世紀に「明庵栄西」(みょうあんえいさい)が宋(そう:中国の王朝)から伝えた禅宗の「臨済宗」(りんざいしゅう)を手厚く保護し、各地に寺院を建立しました。
この背景には、それまで大きな勢力を持っていた「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市。平安時代初期、「最澄」[さいちょう]によって開かれた寺院)や「興福寺」(こうふくじ:奈良県奈良市。奈良時代に建立された、藤原氏の氏寺)といった既存の仏教勢力による影響がありました。
当時、こうした仏教勢力は朝廷と結びついて幕府と対立状態にあったため、その対抗策として新興勢力である臨済宗と手を組んだのです。
そして鎌倉幕府は、戦いで手に入れた「荘園」(しょうえん:寺院や有力貴族の私有地)の管理を鎌倉五山に委託するなど、禅寺を大いに保護しました。
鎌倉五山第1位。創建は1253年(建長5年)。開山(かいざん:禅寺における創建者)は「蘭渓道隆」(らんけいどうりゅう)、開基(かいき:禅寺創建の出資者)は5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)。
蘭渓道隆は宋出身の禅僧で、1246年(寛元4年)に来日。建長寺では細部にわたる厳格な規則を定めて僧の教育に努めました。
その後、北条氏の権力を背景にして伽藍(がらん:寺の建物の総称)は次第に整備され、1255年(建長7年)には今日まで国宝として伝わる梵鐘が完成。
しかし1293年(永仁元年)の地震と1315年(正和4年)の火災で伽藍が2度にわたって焼失。再建の費用をまかなうために、幕府が「建長寺造営唐船」(けんちょうじぞうえいからふね)と呼ばれる貿易船を元(げん:中国の王朝)に派遣したことでも知られています。
また室町時代には高名な禅僧を次々と輩出し、「五山文学」(ござんぶんがく:鎌倉時代から室町時代にかけて、五山の禅僧が制作した漢詩文)を編み出し、鎌倉の禅寺の中心となりました。
鎌倉五山第2位。創建は1282年(弘安5年)。開山は「無学祖元」(むがくそげん)、開基は「北条時宗」(ほうじょうときむね)。
2度にわたる「元寇」(げんこう:元の「フビライ・ハン」による日本侵攻)の戦没者を供養するために創建されました。
無学祖元も中国出身の禅僧で、蘭渓道隆の後任として来日。多くの名僧を育成しています。
鎌倉時代の円覚寺は得宗(とくそう:北条家の中でも執権の世襲が許された、最も格の高い家)と密接な関係を持ち、全国に多くの荘園を持つなど強大な権力を誇りました。
しかし、1374年(応安7年)に内部抗争で中心伽藍が焼失するなど、たびたびの火災で衰退していきます。江戸時代に入ると徳川幕府の援助によって復興が図られますが、何度かの地震で倒壊。そのつど修繕が行われ、当時の建築物は今も残っています。
鎌倉五山第3位。創建は1202年(建仁2年)。開山は明庵栄西、開基は「北条政子」(ほうじょうまさこ)。
寿福寺は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の父である「源義朝」(みなもとのよしとも)の居館であった場所に建てられたと言われます。
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも:源頼朝と北条政子の子)がたびたび参詣し、長老の明庵栄西との談義を楽しみました。
明庵栄西も源実朝と話すことを楽しみにしており、自分で茶について研究して記した「喫茶養生記」(きっさようじょうき)を源実朝に献上したことでも知られます。
しかし室町時代になると火災に見舞われ、次第に衰退していきました。境内奥には、北条政子と源実朝の墓と伝えられる岩が仲良く肩を並べています。
鎌倉五山第4位。創建は1281年(弘安4年)。開山は「兀庵普寧」(ごったんふねい)と「大休正念」(だいきゅうしょうねん)、開基は「北条師時」(ほうじょうもろとき)です。北条時頼の三男「北条宗政」(ほうじょうむねまさ)を弔うために建てられました。
室町時代になると衰退しましたが、江戸時代に再興され、外門・鐘楼門(しょうろうもん:梵鐘[ぼんしょう:釣鐘]が付けられた門)などは関東大震災を乗り越えて現在もその姿を今に伝えています。
鎌倉五山第5位。創建は1188年(文治4年)。開山は「退耕行勇」(たいこうぎょうゆう)、開基は「足利義兼」(あしかがよしかね)。足利義兼は、足利尊氏の6代祖先にあたります。
もともとは「極楽寺」(ごくらくじ:鎌倉市極楽にある真言宗の同名寺とは別)と称しましたが、足利尊氏の父、「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の法名(ほうみょう:僧となったあとの名)の「浄妙寺殿」(じょうみょうじでん)から、現在の寺名に改められたと考えられています。
室町時代に荒廃しましたが、江戸時代に仏殿などが再興され、旧方丈は本堂として現存しています。