14世紀半ばに中国ではモンゴル帝国に代わり漢民族による「明」(みん)王朝が樹立します。明が貿易をするにあたって、相手国に所持を義務付けたのが「勘合」(かんごう)という渡航証明書。勘合とは、海賊行為や密貿易を取り締まるために、明政府が与えた正式な商人であることの証。勘合を持参して行う貿易は「勘合貿易」と呼ばれました。日本では室町幕府の最盛期を築いた室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)によって始まり、室町幕府は膨大な利益を獲得。しかし室町幕府の衰退に伴い、主導者が大名や商人へと変わる中、勘合貿易は終わりを迎えました。
勘合という言葉は、照らし合わせて真偽を確かめるという意味。これが転じて、2つの札を突き合わせて立証した証明書を勘合と呼ぶようになります。
明政府により初めて勘合が交付されたのは14世紀末。現在のタイ・ベトナム・カンボジアに発行した物で、最終的には東アジアのおよそ50ヵ国に与えられました。
それぞれの国の貿易船は勘合を持参して渡航し、当時の明で唯一交易が許された浙江省(せっこうしょう)の港湾都市「寧波」(にんぽう)に入港。ここで「勘合底簿」(かんごうていぼ)と呼ばれる原本と照合し、査証(さしょう:調べて証明すること)が行われたのです。
正式な交易とはいえ、この時代の対中貿易は現代と大きく異なっています。古来、中国には自国を中心に世界が回っているという「中華思想」があり、周辺国に対等の関係を認めていなかったのです。
そのため、中国と貿易をするには、中国皇帝を君主として崇める君臣関係を結ぶ必要がありました。貿易の形式は、周辺国から国王の使いが明を訪れ、君主である皇帝に朝貢(ちょうこう:外国の使いが貢ぎ物を差し出すこと)を行い、皇帝から返礼品を受け取るというもの。
明の豊かさや皇帝の気前の良さを示すため、返礼品は貢ぎ物よりはるかに高価であるのが普通でした。日本からは日本刀・槍・扇・漆器・硫黄などが献上され、明からは銅貨・絹織物・生糸・陶磁器・美術品などが贈られます。
中国から返礼品として渡来した美術品や工芸品は唐物(からもの)と呼ばれて高値が付き、室町幕府は莫大な利益を得ることができました。
日本から明への貿易船派遣は、合計19回行われました。しかし、1467年(応仁元年)に勃発した11年にわたる「応仁の乱」(おうにんのらん)によって室町幕府が衰退すると、代わって有力大名・大寺院・商人達が勢力を握ります。
この3つの勢力間で勘合貿易の利権を巡って抗争が多発し、明側の役人にも賄賂が横行するなど腐敗が蔓延。これにより、日明貿易には厳しい規制措置が敷かれます。以後、二度と貿易船が明に向かうことはありませんでした。
最後の遣唐使(けんとうし:日本から唐[7~10世紀初頭の中国王朝]へ派遣された公的使節)以来、約500年ぶりの日中間の正式国交となった勘合貿易です。莫大な経済効果により豊かな文化・芸能を育みましたが、室町幕府の終焉が近づく1549年(天文18年)に終わりを迎えたのでした。