室町時代の重要用語

勘合貿易 
/ホームメイト

「勘合貿易」(かんごうぼうえき)とは、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が、日本と明(みん:14世紀半ばから17世紀半ばにかけて漢民族が支配した中国の王朝)との間ではじめた貿易のこと。「勘合」(かんごう)と呼ばれる証書を持つことが条件だったために勘合貿易と呼ばれました。日本から刀や槍、扇、硫黄(いおう)などを輸出し、明からは銅貨や絹、美術品などを輸入。国内でこうした品々を流通させることにより、室町幕府は莫大な利益を得ることができました。勘合貿易は1401年(応永8年)から1549年(天文18年)まで19回にわたって行われましたが、室町幕府の衰退に伴い、貿易の主導者が大名や商人へと変わっていくことで利権争いが激化していきました。

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勘合貿易 
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「勘合貿易」(かんごうぼうえき)とは、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が、日本と明(みん:14世紀半ばから17世紀半ばにかけて漢民族が支配した中国の王朝)との間ではじめた貿易のこと。「勘合」(かんごう)と呼ばれる証書を持つことが条件だったために勘合貿易と呼ばれました。日本から刀や槍、扇、硫黄(いおう)などを輸出し、明からは銅貨や絹、美術品などを輸入。国内でこうした品々を流通させることにより、室町幕府は莫大な利益を得ることができました。勘合貿易は1401年(応永8年)から1549年(天文18年)まで19回にわたって行われましたが、室町幕府の衰退に伴い、貿易の主導者が大名や商人へと変わっていくことで利権争いが激化していきました。

名誉を捨て実利を手に入れる

500年間途絶えた貿易

9世紀末に遣唐使(けんとうし:日本から唐[とう:7世紀初頭から10世紀初頭の中国の王朝]に派遣された使節)の派遣が中止されて以来、日本と中国との正式な交流は500年以上も途絶えていました。

この間に中国大陸では農民出身の「朱元璋」(しゅげんしょう)が元(げん:13世紀後半から約100年間、モンゴル族が支配した中国の王朝)を倒し、明王朝の初代皇帝となります。

朱元璋は明を中心とする伝統的な国際秩序の回復をめざし、近隣諸国との外交に乗り出しました。明の建国と同じ1368年(正平23年)に室町幕府3代将軍に就任した足利義満は、明に貿易を求める使者を送ります。

しかし当時、朝鮮半島や中国沿海地域では日本の漁民などによる略奪行為や密貿易が頻発していました。この海賊集団は「倭寇」(わこう)と呼ばれ、沿岸諸国を悩ませていたのです。そのため、明からはなかなか貿易の許可が下りませんでした。

対等ではなかった日中関係

足利義満

足利義満

ようやく明との間で国交と通商が結ばれたのは、交渉から30年以上が経過した1404年(応永11年)。明の3代皇帝「永楽帝」(えいらくてい)の時代になってからでした。この頃の貿易は、現代とは全く異なっています。

古来、中国には「中華思想」(ちゅうかしそう:自国を中心に世界が回っているという思想)があり、他国に対等の関係を許しませんでした。そのため、中国と貿易をするには、皇帝との間に君臣(くんしん:主君と臣下)の関係を結ぶ必要があったのです。

明は室町幕府将軍の足利義満を「日本国王」と呼びましたが、それは尊称ではなく、中国の属国の王という意味でした。それでも明との貿易がもたらす莫大な利益を考え、日本側はこの関係を認めて貿易を開始します。つまり名誉を捨てて実利を得た訳です。

勘合は貿易のパスポート

貿易を行うには、明の皇帝から交付された勘合と呼ばれる渡航許可証が必要でした。貿易船が入れる場所は「寧波」(にんぽー:中国浙江省[せっこうしょう]の港湾都市)に限定され、ここで勘合の査証(さしょう:調べて証明すること)手続きが行われます。

勘合とは今で言えばパスポートのようなもの。2枚の紙をずらして置き、双方の紙にかかるように捺印と署名を行います。その紙を日本と明で1枚ずつ持ち合い、入国の際に日本が提示した片割れの文字を、明が台帳に保管するもう半分の文字と照合。ぴたりと合うかどうかで、本物か偽物かを判別したことから勘合貿易という名が生まれました。

朝貢貿易

貿易の方法も独特でした。日本の国王の使いが君主である明の皇帝に朝貢(ちょうこう:外国の使いが来て貢ぎ物を差し出すこと)し、その返礼品として物品を受け取るという形式で貿易が行われたのです。そのため、明の豊かさや皇帝の気前の良さを示すため、貢ぎ物よりも高価な返礼品が渡されたとされます。しかも滞在費は明が負担し、関税(かんぜい:自国の産業を守るため、輸入品に対してかける税金)もなしという太っ腹。

日本の主な輸出品は・扇・漆器・硫黄などで、明からの輸入品は銅貨・絹織物・生糸・陶磁器など。中国から渡来した美術品や工芸品は唐物(からもの)として重宝され、仕入れた元値の数倍から数十倍で取り引きされることも珍しくありませんでした。「南北朝時代」(なんぼくちょうじだい:室町時代前期、南朝と北朝の2つの朝廷が対立した時代)の争いで荒廃していた日本経済を大いに潤すことになったのです。

室町時代後半の日明貿易

幕府に代わり大名や商人が台頭

1408年(応永15年)に足利義満が病没し、その子である「足利義持」(あしかがよしもち)が室町幕府4代将軍に就任。すると、足利義持は明の皇帝に頭を下げるような朝貢形式が屈辱的だとして、1411年(応永18年)に勘合貿易を中止してしまいます。

足利義教

足利義教

その後、6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)が1432年(永享4年)に貿易を再開。しかし、「応仁の乱」(おうにんのらん:1467年[応仁元年]~1477年[文明9年]の11年にわたる幕府の主導権を巡る政治抗争)で疲弊した室町幕府は次第に衰退していきます。代わって勢力を強めて来たのが、大内氏・細川氏・山名氏といった有力大名や、大寺院、商人達。勘合貿易が儲かるということは誰もが知っていたため、遣明船はどんどん大規模になっていきました。

明の立場で言えば、毎回高価な返礼品を用意するのは大きな負担に他なりません。そこで明の側から、派遣は10年に一度、船数は3隻、人数は300人までと制限がかけられます。貿易量が減ったことで、その主導権を巡って博多(はかた:現在の福岡県福岡市博多区)商人の支援を得た大内氏と、堺(さかい:現在の大阪府堺市)商人を背後に持つ細川氏が互いに反目し合うことになりました。

利権争いと腐敗の末に

1523年(大永3年)には、大内氏と細川氏がそれぞれで独自の遣明船を派遣する事態となります。そして大内氏の船が先に寧波に入港していたにもかかわらず、あとから到着した細川船が役人に賄賂を渡し、先に手続きを済ませてしまいました。怒った大内氏側が細川氏側の使者を殺し、船を焼き打ちし、さらに明人まで殺します。

日本の外交使節が国外で大規模な暴力事件を起こすのは前代未聞の大事件。日本国内における利権争いと明の役人の腐敗が引き起こしたこの騒動は「寧波の乱」と呼ばれ、日明両国にとって大問題に発展します。

大内義隆

大内義隆

以後、遣明船には厳しい規制措置が取られるようになりました。寧波の乱ののち、明との貿易は細川氏との争いに勝った大内氏が独占し、1536年(天文5年)に第16代当主の「大内義隆」(おおうちよしたか)によって遣明船が再開されています。

しかし1551年(天文20年)、跡を継いだ「大内義長」(おおうちよしなが)が正当な大内氏当主ではないと明から貿易を拒まれ、19回にわたって行われた勘合貿易は終わりを告げたのです。

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