室町幕府草創期の南北朝時代、日本史上最大の兄弟争いと言われる「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)は、室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)・重臣「高師直」(こうのもろなお)が、足利尊氏の弟「足利直義」(あしかがただよし)と争った内乱です。この兄弟争いは室町幕府を二分し、日本全土を巻き込む争いへと発展。はじめは力を合わせて幕政の安定を目指した兄弟は、泥沼の戦いの末に足利直義の死という悲劇的な結末を迎えます。また、観応の擾乱は、南北朝の動乱を長引かせる要因にもなりました。
1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を倒して始まったのが、96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)による「建武の新政」(けんむのしんせい)です。
しかし天皇中心の復古的政治は、武士階級の不満につながり、足利尊氏の反乱によって2年あまりで破綻。
敗れた後醍醐天皇は1338年(暦応元年)、奈良県の吉野(現在の奈良県吉野郡)に南朝(なんちょう)を樹立し、足利尊氏が開いた室町幕府側の北朝(ほくちょう)と対立しました。
ところが、1339年(暦応2年)に後醍醐天皇が急病で亡くなったのを境に、南朝は急速に力を失います。
この頃、室町幕府では足利尊氏が軍事面を指揮し、執事の高師直が足利尊氏の命令に従って作戦を実行。一方、足利直義が副将軍の立場で行政・司法面を執り仕切っていました。室町幕府将軍ひとりが権力を独占せず、兄弟の連携により室町幕府の基礎を固めていった訳です。
この体制は「二頭政治」(にとうせいじ)と呼ばれ、兄弟仲の良さの象徴でもありました。安定に向かっていた室町政権は、一気に南北朝統一へと突き進むはずだったのです。
しかし、そんな兄弟に軋轢が生まれます。きっかけは、足利直義と高師直の意見の食い違い。高師直は神仏・皇族、さらには天皇まで軽んじるバサラ(遠慮なく好き勝手に行動すること)的風潮に染まった人物で、生真面目な足利直義とは正反対の性格でした。
伝統的権威を重視して保守的政権を目指す足利直義と、伝統的枠組みを否定し革新的な政権を作ろうとした高師直の対立は次第にエスカレートします。
足利直義を支持する保守派の武士と、高師直を支持する新興の武士とで二派に分かれ、事態はまさに一触即発。その上、南朝方の有力武将「楠木正行」(くすのきまさつら)を討ち取った高師直に多くの武士がなびいていきます。
これに危機感を覚えた足利尊氏は、1349年(貞和5年)、足利直義の要求を聞き入れ、高師直の執事職を罷免。後任に高師直の甥「高師世」(こうのもろよ)を就任させました。
しかし、すぐに高師直の反撃が始まります。高師直は自分に従う武将を集結させ、足利直義の殺害を企ててクーデターを決行。足利直義が足利尊氏の屋敷に逃げ込むと、その屋敷を包囲します。このとき、足利尊氏・足利直義の双方から崇敬を受けていた禅僧「夢窓疎石」(むそうそせき)が仲裁に奔走し、足利直義が政務から引退し出家することで和睦が成立したのです。
また、足利直義の政務を足利尊氏の嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)へ移譲することや、高師直が執事に復帰することも条件でした。しかし、これは観応の擾乱の前哨戦に過ぎなかったのです。
1350年(観応元年)、足利尊氏・高師直は、九州で勢力を増大させていた「足利直冬」(あしかがただふゆ)追討のため出陣。
足利直冬は、足利尊氏の次男でありながら認知されず、足利直義の養子となり、山陽・山陰地方を統括する「長門探題」(ながとたんだい)として重用されていました。
そして、足利尊氏と高師直が、足利直冬追討のために出陣した直後、足利直義が京都を抜け出し奈良で挙兵。足利直義実は出家して政界への未練を断ち切ったと見せかけ、復権を虎視眈々と狙っていたのです。こうして始まったのが観応の擾乱でした。
足利直義は、諸国の武士達に高師直討伐を呼びかけ、各地で武力を結集。これを知った足利尊氏らは急ぎ京都へ戻ろうとしますが、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府西部と兵庫県南東部)で足利直義軍に敗北。
足利尊氏は足利直義の講和条件を受け入れ、高師直と弟「高師泰」(こうのもろやす)を出家させることで手打ちをします。
しかし、高師直・高師泰の2人は京都へ送られる途中、武庫川(むこがわ:兵庫県伊丹市)のほとりで、足利直義派の武将「上杉能憲」(うえすぎのりよし)らに殺害されてしまいました。こうして観応の擾乱の第一幕は、足利直義の勝利に終わったのです。
足利直義は、足利義詮の補佐役として政務復帰を果たします。しかし足利義詮との不仲が原因で、1351年(観応2年)に足利直義は、政務からの引退を表明。結局、新体制は半年しか続きませんでした。
その後、足利尊氏は南朝方の武将「佐々木道誉」(ささきどうよ)討伐のため、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)へ出陣。足利義詮も同じく南朝方の武将「赤松則祐」(あかまつのりすけ)討伐に、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)へ出陣します。
しかしこの出陣は、京都に足利直義をひとり残し、東西から挟み撃ちするために仕組んだ罠。これに気付いた足利直義は、自分の派閥を伴って京都を脱出し、北陸で挙兵します。こうして観応の擾乱の第2幕が始まりました。
しかし北陸で挙兵したものの、足利尊氏が示した大量の恩賞を目当てに、足利直義軍の大勢の武将が足利尊氏側へ寝返ったのです。足利直義は苦戦を強いられ、とうとう北陸から鎌倉へ落ち延びて行きます。
さらに、足利尊氏は敵対していた南朝と交渉し、97代「後村上天皇」(ごむらかみてんのう:南朝2代天皇)から、足利直義討伐の綸旨(りんじ:天皇の命令)を獲得。
そして足利尊氏軍は、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中東部)でついに足利直義軍を撃破。1352年(観応3年)、足利直義は降伏し、間もなく幽閉先の鎌倉で死去しました。
突然の死だったため、足利尊氏に毒殺されたという説もささやかれたほどです。足利直義の死によって、観応の擾乱はようやく幕を閉じました。
観応の擾乱の終結によって、足利尊氏派・足利直義派に分かれていた武士達がひとつにまとまり、室町幕府将軍の権力は強化されていきました。
しかし、足利尊氏が南朝から綸旨を得て足利直義を討つ大義名分としたことで、弱体化していた南朝が息を吹き返したのです。これによって、一時は北朝優勢で進んできた念願の南北朝統一は、いっそう遠のくことになってしまうことに。
その後、南北朝の分裂は約60年間も続き、ようやく統一が実現したのは1392年(明徳3年)、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代になってからでした。