天皇を補佐する朝廷の役職で、未成年の天皇を補佐する役職を「摂政」(せっしょう)、成年後の天皇を補佐する役職を「関白」(かんぱく)と言いました。関白は、天皇に寄せられる情報をすべて「関かり」(あずかり)、天皇に「白す」(もうす)ことで政治に関与できたことに由来します。平安時代以降、摂政と関白職になれたのは藤原氏(ふじわらし)の中でも特別な一族に限られました。戦国時代に「豊臣秀吉」が武士として初の関白に就任しましたが、江戸時代には再び藤原氏に戻ります。そして明治時代に廃止されるまで、関白は約1,000年にわたって受け継がれてきたのです。
日本で最初に関白となったのは、9世紀末の政治家「藤原基経」(ふじわらのもとつね)です。藤原基経は、7歳で即位した57代「陽成天皇」(ようぜいてんのう)の摂政を務めた実力者。
887年(仁和3年)59代「宇多天皇」(うだてんのう)が即位するときに、藤原基経を頼りにしたのも無理はありません。しかし関白に任じるとき、「阿衡」(あこう)のように自分を支えてほしいと天皇が依頼したことで騒動となります。
阿衡とは古代中国の役職で、重職なのに職務を持たない人という意味もあったのです。藤原基経は激怒し、すべての職務を放棄。最終的には「菅原道真」(すがわらのみちざね)が仲介して解決しました(阿衡事件)が、これによって関白・藤原基経の実力の大きさを誰もが再認識したのです。
次に関白に任命されたのは「藤原忠平」(ふじわらのただひら:藤原基経の子)です。藤原忠平は930年(延長8年)に61代「朱雀天皇」(すざくてんのう)の摂政になりました。
その後、朱雀天皇が元服(げんぷく:成人の儀式)したため摂政を辞退しようとしますが、939年(天慶2年)に「承平・天慶の乱」(じょうへい・てんぎょうのらん:地方武士による朝廷への反乱)が起きたため、朱雀天皇は藤原忠平の辞退を却下して乱の鎮圧に当たらせました。
その後、941年(天慶4年)に乱が収まると、改めて藤原忠平は関白に任命されます。天皇の成人によって摂政が関白になるというのは、これが最初の事例になりました。
その後も「藤原実頼」(ふじわらのさねより)、「藤原兼通」(ふじわらのかねみち)、「藤原頼忠」(ふじわらのよりただ)と、藤原忠平の一族から関白が誕生しています。慣例的に摂政・関白は天皇に次ぐ権力者とされましたが、もともと朝廷に摂政・関白という役職はなく、位置づけも明確ではありませんでした。ただ、これまでの摂政・関白は全員がその時点における朝廷の最高権力者だったために問題はなかったのです。
しかし986年(寛和2年)、「右大臣」(うだいじん)の「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)が66代「一条天皇」(いちじょうてんのう)の摂政になったとき、その上席に「太政大臣」(だいじょうだいじん)と「左大臣」(さだいじん)という2人の役職者がいたため、摂政の位置づけがあいまいになってしまいました。そこで藤原兼家は右大臣を辞し、「摂政・関白は太政大臣・左大臣・右大臣より格上」だと周囲に認めさせます。
これによって摂政・関白は朝廷の役職から切り離され、藤原氏の「氏長者」(うじちょうじゃ:一族の中で最も権力を持つ者)が任命される特別な役職となりました。
藤原兼家の死後、藤原氏内部の権力闘争に勝利して摂政となったのが「藤原道長」(ふじわらのみちなが:藤原兼家の子)です。
藤原道長は在職わずか1年で息子の「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)に摂政を譲りますが、引き続き「内覧」(ないらん:天皇にお見せする文書を事前に読んで対処する役職)として権力を掌握。自分の娘を3代の天皇に嫁がせるなど、天皇の外戚となることにより皇室との関係を深めて、事実上の最高権力者として政治を動かしました。
そのため、藤原道長は「御堂関白」(みどうかんぱく)という別名を持っていました。藤原頼通は1019年(寛仁3年)に68代「後一条天皇」(ごいちじょうてんのう)の関白となり、以後50年にわたり、3代の天皇の関白を務めました。藤原道長・頼通親子の時代が「摂関政治」(せっかんせいじ:藤原氏が摂政・関白として政権を掌握すること)の最盛期とされます。
その後、藤原頼通の娘と天皇との間に皇子が生まれなかったため、血縁の皇子を天皇にして藤原氏が関白となるという体制が崩れました。また、白河上皇による院政が始まり、摂関の権力は後退します。しかし相変わらず藤原道長の末裔が摂政・関白を独占し続けました。
このように代々摂政・関白を輩出した一族を「摂家」(せっけ)と呼びます。平安時代末期に摂家の内部で権力争いが起こり、摂家は近衛家(このえけ)・九条家(くじょうけ)・二条家(にじょうけ)・一条家(いちじょうけ)・鷹司家(たかつかさけ)の五摂家に分かれてしまいました。
鎌倉時代には九条家から2名の将軍が誕生しますが、どちらも政治的な権力はまったくありませんでした。
室町時代に入ると、ますます朝廷の権力は失われていきました。しかし武士達は自分達の支配を正当化するため、朝廷の権威を利用しようと考えます。戦国時代末期に天下を統一した「羽柴秀吉」(はしばひでよし)は、武士として初めて関白に就任しました。
しかも、関白職を朝廷から奪ったのではなく、関白になるために羽柴秀吉は近衛家に養子に入るという正式な手順を踏んでいます。
関白になって改名した「豊臣秀吉」は、すぐに養子の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)に関白を譲り、自らは「太閤秀吉」(たいこうひでよし:[太閤]は関白を譲ったあとの尊称)と称します。しかし豊臣家が滅びたのちは、再び摂政・関白は五摂家が継ぐようになりました
江戸時代になると、関白になるには幕府の推薦が必要と決められました。しかし「改元」(かいげん:元号を改めること)などの重要事項の会議は関白が行ったため、関白は再び朝廷の中で権力を持ち始めます。
例えば1690年(元禄3年)に113代「東山天皇」(ひがしやまてんのう)の関白となった「近衛基熙」(このえもとひろ)は、自分の娘を6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)に嫁がせることで将軍の外祖父となり、朝廷だけでなく幕府の中でも一定の権力を保ちました。
1867年(慶応3年)の「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい:幕府の廃止と明治新政府の設立に関する宣言)で、摂政・関白・太政大臣が廃止され、1,000年近く続いた関白の歴史は終わりを告げました。しかし1921年(大正10年)、病弱であった123代「大正天皇」を補佐するために摂政が復活し、20歳の「裕仁殿下」(ひろひとでんか:のちの124代[昭和天皇])が就任しました。
2021年(令和3年)現在、天皇の公務を代行する摂政は、「皇太子」(こうたいし:皇位継承権第一位の皇子)など皇族のみが任ぜられる職と皇室典範に定められています。