江戸時代の重要用語

関税自主権 
/ホームメイト

「関税自主権」(かんぜいじしゅけん)とは、「関税率」(かんぜいりつ:輸入品にかける税金の率)を、輸入する国が自由に決める権利のこと。日本は1858年(安政5年)にアメリカとの間で「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んだ際、関税自主権の放棄(ほうき:手放すこと)を容認しました。つまり、相手国から関税の優遇をされず、自分で関税を決めることもできなかったのです。関税自主権が認められたのは日米修好通商条約締結から実に53年後、1911年(明治44年)のことでした。

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関税自主権 
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「関税自主権」(かんぜいじしゅけん)とは、「関税率」(かんぜいりつ:輸入品にかける税金の率)を、輸入する国が自由に決める権利のこと。日本は1858年(安政5年)にアメリカとの間で「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んだ際、関税自主権の放棄(ほうき:手放すこと)を容認しました。つまり、相手国から関税の優遇をされず、自分で関税を決めることもできなかったのです。関税自主権が認められたのは日米修好通商条約締結から実に53年後、1911年(明治44年)のことでした。

対等ではなかった貿易関係

相手国だけに有利な関税率

1858年(安政5年)の日米修好通商条約に続き、江戸幕府はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条約を締結。これを「安政の五ヵ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)と呼びます。そして横浜・長崎・新潟・神戸・箱館(はこだて:現在の北海道函館市)の5港で貿易を開始しました。各国との条約に共通していた項目のひとつが「関税自主権の放棄」です。

本来なら日本が輸入する品への「関税率」は日本が自由に決められるのですが、日本はその権利を放棄し、関税率を定めるには相手国の同意が必要でした。一方、貿易相手の国々は、日本からの輸入品への関税率を決めるのに、日本の同意は必要ありませんでした。

つまり欧米の国々は、輸出品の関税率を低く設定して自国の商品をどんどん買わせ、自国が日本から輸入する際には、国内産業を守る必要がある品目の関税率を高く設定して大量流入を防ぐことができたのです。

条約改定でますます不平等に

欧米の国々が日本に関税自主権を放棄させた理由は、当時の日本が近代的国家ではなかったためです。法整備が進んでいた欧米諸国は、商取引に関する法律や規制が整備されていない日本が極端に高い関税をかけることを恐れ、このようなルールを定めたと言われます。

実は条約が結ばれた当初、イギリスが日本から輸入する物品の関税率は5~35%で、日本が外国から輸入する品の中にも20~30%の関税率を認められた物がありました。

ところが1866年(慶応2年)に交わされた各国との修好通商条約の「改税約書」(かいぜいやくしょ:関税についての改訂)により、欧米諸国が日本からの輸入品にかける関税率は一律5%へと引き下げられます。

これによって日本にだけ海外製品が流入しやすい、きわめて不平等な状況が生まれたのです。

弊害にさらされた国内経済

高品質な織物が大量に流入

欧米諸国との貿易が始まると、関税自主権がないことが日本の経済や産業に大きな影響を及ぼすようになりました。特に顕著だったのは、イギリス製の毛織物や木綿織物。18世紀半ばに起きた産業革命により、工場で生産された高品質な製品が、低い関税で大量に日本に入ってきたのです。1865年(慶応元年)には、輸入品全体の8割ほどを毛織物・木綿織物が占めたほど。

当時の日本では毛織物は生産されていなかったものの、これは手作業による少量生産を行っていた木綿織物の生産者に大打撃でした。これで国内の綿織物生産や綿花栽培といった産業は衰退。

関税自主権の放棄が、このような自国の産業を守れない結果を招いてしまったのです。

輸出が増え、国内は物価高に

一方、日本製品の欧米への輸出も、国内の経済や産業に大きく影響しました。貿易開始当初からの日本の主要な輸出品は生糸(きいと:絹糸)です。ヨーロッパでは19世紀半ばに蚕の病気が流行したため、日本製の生糸は大いに輸出量を伸ばしました。

また蚕卵紙(さんらんし:絹糸を出す蚕の成虫の蛾が卵を産み付けた紙)や緑茶、海産物も主要な輸出品でした。これらの品を扱う日本の生産者は潤い、製糸業などの産業も大いに発展します。しかしこれで国内市場は品不足になり、価格が高騰。日本人はこれまで当たり前に買えた物が手に入らなくなり、国内の経済は混乱。西陣織(にしじんおり:京都の伝統的な高級織物)などの絹織物生産者までもが、原料の生糸が手に入らず苦境に立たされました。

関税自主権回復への道のり

次第に国際的地位を高めた日本

日本が明治時代に突入すると、関税自主権の回復は新政府の最重要課題のひとつとなります。政府は政府首脳の「岩倉具視」(いわくらともみ)による欧米への使節団を皮切りに、歴代の外務大臣が各国と粘り強い交渉を続けました。

1894年(明治27年)には、当時の外務大臣「陸奥宗光」(むつむねみつ)がアメリカとの間で「日米通商航海条約」(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)、通称「陸奥条約」を交わし、「領事裁判権」(りょうじさいばんけん:法を犯した日本在住の外国人を、その国の法によって裁く権利)の撤廃と、関税自主権の一部回復を実現。

ポーツマス講和会議に参加する小村寿太郎

ポーツマス講和会議に参加する
小村寿太郎

そのあとを継いだのが、内閣総理大臣「桂太郎」(かつらたろう)の下で外務大臣となった「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)でした。

1904年(明治37年)、日本はロシアとの間で朝鮮半島や満州をめぐって勃発した「日露戦争」に勝利。その後、ロシアと日露戦争の賠償金交渉を行うため、小村寿太郎はアメリカで「ポーツマス講和会議」に参加し、一歩も引かないタフな交渉によって有利な条件を勝ち取ります。

日露戦争の勝利と小村の働きにより、アメリカは日本を高く評価するようになりました。

アメリカを皮切りに完全改正へ

日米通商航海条約をはじめ各国との通商条約は、1911年(明治44年)に満期を迎えることとなっていました。小村寿太郎は前年の1910年(明治43年)、対象となる国々に廃棄通告(はいきつうこく:条約を失効させると知らせること)を出します。そして、日本を高く評価していたアメリカを最初の交渉相手に選び、新たな条約の締結の交渉を開始。1911年(明治44年)、新しい日米通商航海条約、通称「小村条約」を締結し、アメリカとの間で関税自主権を回復しました。

以後、他の国々もこれに追従。1858年(安政5年)の江戸幕府による日米修好通商条約締結から半世紀以上の年月を費やし、不平等条約はすべて改正されました。日本はようやく、欧米諸国と対等にわたり合える国として認められたのです。

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