「枯山水」(かれさんすい)とは、水を一切使わず砂や石だけで山や水の景色を表現した日本庭園のことです。京都の「龍安寺」(りょうあんじ)や「大仙院」(だいせんいん)などの庭がよく知られます。枯山水が流行したのは、室町時代後期に入ってから。禅宗が室町幕府に保護されたことで、京都の庭園文化を受け継ぎながら禅の思想を視覚的に表現する枯山水が発展したのです。枯山水の庭は散歩する場所ではなく、建物の中から心静かに鑑賞するための存在でした。建具越しに眺める庭は、まるで額縁に入った1枚の絵のようであり、そこには無駄を極限まで取り除いた仏教的な世界観がありました。
白砂を敷き詰めた地面に描かれた直線や曲線、大小様々な石。禅宗の寺の庭でよく見かける光景です。このように、水を使わず、砂や石だけで自然の景色を表した庭園が枯山水です。その始まりは平安時代末期でした。
その頃に書かれた、日本で最初の庭造りの手引書である「作庭記」(さくていき)に、「池も水もない場所に石を置くことを枯山水という」という記述が見られます。
当時の枯山水は、池などの水場から少し離れた場所に小高い山や斜面を作り、そこに石を組んで山水を表現するというスタイルでした。
現在のような枯山水の庭が確立されたのは室町時代になってから。そこには「夢窓疎石」(むそうそせき)が大きくかかわっていました。夢窓疎石は鎌倉時代末期から室町時代初期に活躍した臨済宗(りんざいしゅう:禅宗の一派)の僧侶。
作庭家・漢詩人・歌人というマルチな才能の持ち主であった夢窓疎石は、1339年(暦応2年)に室町幕府の重鎮「藤原親秀」(ふじわらちかひで)から、京都の「西芳寺」(さいほうじ)を再興するようお願いされます。西芳寺は奈良時代に創建された歴史ある禅寺でしたが、長い年月が経って荒廃していたのです。
夢窓疎石はもともとあった庭園を禅宗庭園に改造し、日本最古とされる枯山水の石組(いしぐみ:自然石を組み合わせて配置すること)を作りました。
禅宗の修行は、座禅や瞑想などを通して心を無にして邪念を払うこと。無駄を極力取り除き砂や石だけで自然界を表現する枯山水は、禅の考えにも通じます。
枯山水を構成する大きな要素が、水面を表現する白砂。等間隔に歯を付けた熊手のような道具を使って、砂の上にさざなみ・渦・うねりなどを模した線を描きます。この線を「砂紋」(さもん)または「箒目」(ほうきめ)と言い、足跡を残さないよう後ずさりしながら丹念に描かれました。
枯山水のもうひとつの主役が石です。白砂の中に、仏が住む聖なる山「須弥山」(しゅみせん)を表す石や、3人の仏に見立てた3つの石「三尊石」(さんぞんせき)、中国の故事で不老不死の仙人が住む「蓬莱山」(ほうらいさん)、滝の流れを表現する「滝岩組」(たきいわぐみ)、さらに長寿の象徴である鶴や亀に見立てた石などが並べられました。
こうした石の配置や借景としての壁にも、室内からの眺望が計算されています。修行僧は、まるで絵画のようなこの庭と向き合いながら心を落ち着けたのです。
枯山水の代表と言えるのが、龍安寺(京都市右京区)の石庭です。
龍安寺は1450年(宝徳2年)に創建された臨済宗の寺院で、1994年(平成6年)に「古都京都の文化財」として、ユネスコ世界遺産に登録されました。
石庭は、正しくは「方丈庭園」(ほうじょうていえん:方丈とは住職の居室)と呼ばれる庭。これは平らな敷地に作られた幅25m×奥行10mの庭。25mプールとほぼ同じ面積です。
三方を土塀に囲まれた地面いっぱいに白砂を敷き詰め、その上に大小15個の石を配置。これらの石を島に見立て、白砂に線を描くことで水の流れを表しています。
不思議なのは、どの位置から眺めても必ずどれかひとつの石が他の石に隠れ、14個の石しか見えないこと。実はこの石庭、作者も作成意図も不明。どんな解釈をするかは見る人次第なのです。1467年(応仁元年)に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)によって龍安寺は一時焼失してしまいますが、1488年(長享2年)に再建されて今も私達の心を和ませてくれます。
1509年(永正6年)に創建された京都市北区の大仙院は、臨済宗の大徳寺(だいとくじ)内にある塔頭寺院(たっちゅうじいん)。
塔頭とは大きな寺に付属する寺院で、最初は高僧が亡くなったあとに墓所を守ることが目的でしたが、のちに寺にゆかりの深い高僧の隠居場所として設けられるようになります。
大仙院の庭も室町時代を代表する枯山水の名庭園です。30坪あまりのコンパクトな「書院庭園」(しょいんていえん:書院建築に付随する庭園)に配置された石組が、蓬莱山・滝・渓流・大海・宝船などを表現しています。
のちに茶の湯を大成した「千利休」(せんのりきゅう)は、この庭で「つくばい」(茶庭に設ける手水鉢)の着想を得たと言われます。
京都市東山区の「建仁寺」(けんにんじ)は、1202年(建仁2年)に創建された京都最古の禅寺。京都五山(きょうとござん)のひとつです。
開祖の「明庵栄西」(みょうあんえいさい/ようさい)は、宋(そう:10世紀後半から13世紀後半の中国王朝)に渡って禅宗を学び、臨済宗として日本に伝えた禅僧。
度重なる戦乱のために現在は創建当時の建物も庭も残っていませんが、1599年(慶長4年)に広島の安国寺(あんこくじ)から移築された方丈が室町時代の建築様式を今に伝えています。
方丈の前にある石庭が、中国の「百丈山」(ひゃくじょうざん)の眺めを模して作られたとされる「大雄苑」(だいおうえん)です。
現在の庭は1940年(昭和15年)の作庭。横30m×奥行15mほどの空間に15個の自然石と緑苔が配され、白砂にはうねるような波模様などが描かれてシンプルな中にも雄大さを感じさせます。
戦火による消失と再建が繰り返された室町時代、枯山水は限られた敷地に水を引かず、意匠を凝らして創作された物でした。また今日では、現代風の建築にも合うモダンなエクステリアとして、様々な施設で取り入れられています。