「加藤高明」(かとうたかあき)は、明治時代から大正時代にかけて活躍した外交官、政治家です。旧制「東京大学」を卒業後、三菱へ入社し、海運業を学ぶためイギリスへ留学。イギリス滞在中に外交、政治に興味を持った加藤高明は、官僚を経て政界へ転じると、1900年(明治33年)には「伊藤博文」(いとうひろぶみ)内閣で外務大臣に選ばれます。「大隈重信」(おおくましげのぶ)内閣の外務大臣時代には、中華民国(清を廃した新政権)に対し「対華21ヵ条」を受諾させるなど、外交で手腕を発揮するのでした。そののち、「護憲三派内閣」(ごけんさんぱないかく)を組織し、内閣総理大臣に就任すると、いわゆる「飴と鞭」(あめとむち)と言われる「普通選挙法」、「治安維持法」を制定します。国際舞台、国内政治それぞれに辣腕を振るった加藤高明は、どんな人生を辿ったのでしょうか。
加藤高明は、1860年(安政7年)に尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)、尾張藩(おわりはん:現在の愛知県名古屋市)の下級武士の家に誕生。
1881年(明治14年)に旧制東京大学法学部(現在の東京大学)を首席で卒業すると、三菱へ入社し、1883年(明治16年)には海運業を学ぶため、イギリスへ留学。
帰国後、三菱財閥の創業者である「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)に認められた加藤高明は副支配人に任命され、さらに岩崎弥太郎の娘「岩崎春路」(いわさきはるじ)と結婚。岩崎弥太郎の娘婿となったことから、のちに政敵から「三菱の大番頭」などと皮肉られることもあったとされています。
イギリス留学中に政治、外交に関心を持った加藤高明は、1887年(明治20年)に官僚へと転身し外務省に入省。大隈重信外務大臣の秘書として登用され、条約改正交渉にも携わります。一時期、大蔵省(現在の財務省)へ移るも、再度外務省に戻り、イギリス駐在公使(駐在大使)、外務大臣を歴任。その後は政界に入り、1902年(明治35年)より衆議院議員に2回当選しています。
1915年(大正4年)、外務大臣だった加藤高明は、中華民国の大総統(だいそうとう:当時の中華民国元首)である「袁世凱」(えんせいがい)へ対華21ヵ条を要求。その内容は「第1次世界大戦」の混乱に乗じ、中華民国への日本側の強硬な姿勢を表したもの。
対華21ヵ条の中で日本が最も重要視していたのは、旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)の租借(領土を借り受けること)期限、南満州鉄道(みなみまんしゅてつどう)、安奉鉄道(あんぽうてつどう)の権益期限を延長することでした。
それ以外にも多くの無謀な要望が羅列されており、諸外国からも日本に猜疑心を持たれる内容でした。この交渉に元老(げんろう:天皇の相談役)達は批判。特に「松方正義」(まつかたまさよし)は、日中関係はもとより、国際的な信頼を失墜させたことに対し、加藤高明へ厳しく注意・警告を行っています。
日本側の無謀な要求を受け取った中華民国政府は、外国の公使(大使)らに日本の対華21ヵ条を吹聴したり、国内世論を煽ったりと国内、及び諸外国に反日感情を植え付けました。もちろん、中華民国側もこれら過大な対華21ヵ条を受け入れず、交渉は難航します。最終的には、一部要求を取り下げて中華民国に受諾されていますが、この対華21ヵ条により、日中関係は悪化。中華民国の全土で排日運動が起こり、大総統・袁世凱によって対華21ヵ条を受け入れた5月9日を「国恥記念日」と定めたほどでした。
1924年(大正13年)、政党政治の復活を目指して加藤高明が総裁を務める「憲政会」(けんせいかい)、「立憲政友会」(伊藤博文が設立した政党)、「革新倶楽部」(犬養毅[いぬかいつよし]率いる政党)が、「第2次護憲運動」を起こし、超然内閣(ちょうぜんないかく:官僚による内閣)であった「清浦奎吾」(きようらけいご)内閣を倒します。
憲政会の総裁・加藤高明を総理大臣として、立憲政友会からは「高橋是清」(たかはしこれきよ)、革新倶楽部からは犬養毅らが入閣し、連立政権が発足。これが護憲三派内閣と呼ばれる政権です。しかし、次第に3つの政党の対立が表面化し、翌1925年(大正14年)7月には総辞職、8月には憲政会単独内閣となる第2次加藤高明内閣がスタートしました。
この年、加藤高明内閣は「日ソ基本条約」を結び、ロシア帝国を革命で倒したソヴィエト連邦共和国(通称:ソ連)と国交を樹立します。この国交樹立によりソ連の社会主義(平等な社会を目指した思想)、共産主義(利益、所有物を共有化する思想)の思想が日本国内へ広がることを警戒し、治安維持法の制定へと進んでいくのです。
1925年(大正14年)3月に第1次加藤高明内閣が立案した治安維持法が、普通選挙法とともに成立します。この2つは「飴と鞭」に例えられるように、国民にとって都合の良いもの、悪いものを抱き合わせた法案でした。
治安維持法は、社会運動の発展に対処し、国体(国家の基本体制)の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社及び運動を厳禁とするものです。ところが、次第に「特別高等警察」(思想・言論を取り締まる秘密警察)と結合し、反政府・反戦の言動を拡大解釈して社会主義運動、労働運動、思想、言論、表現などを弾圧するようになります。
そのため、治安維持法は「天下の悪法」とされ、処罰された人々は実に数万人にも及ぶと言われています。そののち、治安維持法は「第2次世界大戦」後の1945年(昭和20年)にGHQ(連合国最高司令官の総司令部)の指令によって廃止されるまで続いたのでした。
治安維持法とともに1925年(大正14年)に成立したのが、満25歳以上のすべての男子に参政権を認める普通選挙法。これにより有権者は約4倍もの人数に増加したと言われています。それまでは納税額による制限があり、一定の金額以上の納税者のみが投票できるというものでした。この普通選挙法では、まだ女性の参政権は認められてはいませんが、普通選挙法の成立は加藤高明にとって悲願だったのです。
普通選挙法、及び治安維持法が制定されたあと、護憲三派による連立政権は消滅。加藤高明を総理大臣とする単独内閣が発足した翌1926年(大正15年)1月、加藤高明は肺炎が原因で倒れ、66歳で亡くなります。欧米各国に肩を並べる近代国家を目指した姿勢が評価される一方で、数々の批判される施策を行った加藤高明は、現役の総理大臣という身分のまま生涯を終えました。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 加藤高明(「近世名士写真」其1)