「桂昌院」(けいしょういん)は江戸時代、八百屋の娘として生まれ、そこから最終的に大奥の最高権力者へと成り上った人物です。江戸幕府第3代将軍「徳川家光」に寵愛され、江戸幕府第5代将軍「徳川綱吉」の実母としても知られています。その劇的なシンデレラストーリーは、日本の長い歴史を見渡しても他に例を見ません。桂昌院はいかにして、一般庶民から江戸幕府将軍の側室、江戸幕府将軍の母へと上り詰めたのか、桂昌院の数奇に満ちた生涯を見ていきます。
1627年(寛永4年)に、桂昌院は京都にある青物屋(八百屋)の娘として生まれ、若い頃は「お玉」と呼ばれていました。
早くに父を亡くしたお玉は、母とともに農家から仕入れた野菜を、毎日売り歩く生活を送り、決して暮らしは楽ではありませんでした。
そんな、お玉に転機が訪れるのは10歳のとき。丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)の武士「本庄宗正」(ほんじょうむねまさ)がお玉の母を後妻に取り、お玉は本庄宗正の養女となります。
1639年(寛永16年)には、養父・本庄宗正から大奥で部屋子として働くように言われ、「江戸城」(東京都千代田区)に入城。本庄宗正が仕えていた公家の娘「お万の方」が徳川家光に見初められて大奥入りすることとなり、その身の回りの世話係としてお玉は江戸へと下ったのです。
お玉は14歳で江戸城に入り、お万の方の世話係として懸命に働いていると、その姿が「春日局」(かすがのつぼね)の目に留まり、春日局の部屋子として働くようになります。
春日局と言えば、徳川家光の乳母。大奥制度を確立させた人物として知られ、江戸城の女性の中でも最高権力者でした。お玉は春日局から指導を受けるようになると、大奥内での存在感も次第に増していきます。その頃、徳川家光は子どもに恵まれず、跡継ぎ問題を抱えていました。
春日局は側室を探し、白羽の矢が立ったのが、お玉。江戸幕府将軍の目の前を側室候補が歩く、「御庭拝見」(おにわはいけん)で徳川家光がお玉を気に入り、ついに江戸幕府将軍の側室に選ばれます。
晴れて徳川家光の側室となったお玉は、1646年(正保3年)に息子「徳松」(とくまつ)を出産。のちの江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉です。
しかし、徳松が生まれた際、徳川家光には3人の息子がいたため、徳松が江戸幕府将軍を継ぐ可能性は、ほとんどありませんでした。そのため、徳川家光は徳松に対して、学問に励むよう言い聞かせたとされています。
その後、1651年(慶安4年)に徳川家光が死去。江戸幕府第4代将軍には、徳川家光の長男「徳川家綱」(とくがわいえつな)が就任します。これと同時に、お玉は出家。桂昌院として、息子・徳松とともに江戸を離れて、「知足院」(ちそくいん:現在の大御堂[おおみどう]、茨木県つくば市)に入りました。
それ以降、学問と仏道に没頭する日々が続きます。それから約30年後、1680年(延宝8年)に、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱が病に倒れ、後継者として徳松の名が浮上します。そして徳松が、徳川綱吉として江戸幕府第5代将軍になると、桂昌院も江戸城へ再び入城。
1684年(貞享元年)に従三位、1702年(元禄15年)には女性として最高位の従一位と、「藤原光子」(ふじわらのみつこ)の名も賜ります。また、大奥の最高権力者として、政治面でも力を持っていました。1705年(宝永2年)に、桂昌院は79歳で亡くなり、墓所は「増上寺」(ぞうじょうじ:東京都港区)に置かれています。
江戸城へ戻った桂昌院は、徳川綱吉の「生類憐みの令」にも関与したと言われます。当時、江戸幕府が成立して100年近くが経過していましたが、江戸市中では殺人が横行。
桂昌院はもともと庶民の出のため、その殺伐とした社会の雰囲気を肌で強く感じ取り、「武力社会から儒教と仏教を重んじる社会へと移行させるべき」という思想を持ちます。そんな背景から発令されたのが、生類憐れみの令。
しかし、世間では、徳川綱吉のことを「犬公方」などと呼び、極端に犬を愛護した江戸幕府将軍として非難します。ただ、それと同時に殺人、捨て子、病人も減少し社会を大きく変革したことは間違いありません。その意味では、桂昌院が、今日の日本社会に与えた影響は決して少なくないと言えるのです。