「遣唐使」(けんとうし)とは、7世紀の初めに先進の文化を学ぶため日本から「唐」(とう:7世紀初頭〜10世紀初頭に中国を統一した王朝)へ派遣された使節団です。彼らは命がけで唐に渡り、「律令制度」(りつりょうせいど:法律に基づいた統治制度)をはじめとする文化を持ち帰って国家の発展に貢献しました。平城京(へいじょうきょう:8世紀初めに奈良に開かれた都)は、唐の都「長安」がモデルと言われますが、この都市計画のもとになった情報を持ち帰ったのが遣唐使でした。遣唐使の派遣は延べ15回行われ、平安時代に廃止されるまで約200年間続きました。
「聖徳太子」(しょうとくたいし)が活躍した頃、日本は「隋」(ずい:6世紀終わり~7世紀初頭の中国王朝)に使者を送り、進んだ文化や政治を学びました。
これが「遣隋使」(けんずいし)です。618年(推古天皇26年)に隋が滅んで唐が建国されると、中国への使節団は遣唐使に変わります。
第1回遣唐使が行われたのは630年(舒明天皇2年)。このとき派遣されたのは、大和朝廷の役人で外交官、そして608年(推古天皇16年)に行われた最後の遣隋使メンバーでもあった「犬上御田鍬」(いぬかみのみたすき)です。
同行したのは医師の「薬師恵日」(くすしのえにち)らでした。薬師恵日も遣隋使であった人物で、かつて「小野妹子」(おののいもこ:聖徳太子の信任が厚かった大和朝廷の役人)とともに隋に渡り医術を修得しています。
遣唐使では、一度の派遣で400〜500人が4隻ほどの「遣唐船」(けんとうせん)で大陸を目指しました。彼らは唐に渡って政府と友好関係を築きながら、政治や法律、仏教の経典、芸術分野、さらに作物の育て方まで幅広く学んだのです。
派遣された人数がここまで多かったのは、多くの商人が同行していたからでした。
日本は、聖徳太子の時代より隋と対等の関係を構築しようと努力してきましたが、依然として朝貢貿易(ちょうこうぼうえき:隋の皇帝に貢物を差し出し、返礼として宝物を受け取るという方式)が基本でした。
遣唐使は繊維の原材料などを献上し、唐の皇帝から工芸品や絹織物などを賜ったため、多くの商人が必要とされたのです。この貿易によって朝廷は大いに利益を得たとされます。しかし航海術や造船技術も未熟な時代だけに、遣唐使は大きな危険を伴い、航海の途中で遭難する人があとを絶ちませんでした。