「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、天皇・上皇(じょうこう:天皇位を譲ったのちの尊号)、公家(くげ:朝廷に仕える貴族)、門跡(もんせき:皇族や公家が住職を務める寺社)に対して江戸幕府が定めた規則。1615年(元和元年)、豊臣家(とよとみけ)を滅ぼし天下を統一した、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)と、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、前関白「二条昭実」(にじょうあきざね)の名前で発布されました。起草者は、江戸幕府の政策担当であった「金地院崇伝」(こんちいんすうでん)と伝えられます。江戸幕府が天皇、公家を管理下に置くことを公言して力関係を明確にし、江戸幕府の権力と権威の安定を図ることが目的でした。
1603年(慶長8年)に江戸幕府を開いた徳川家康は、1606年(慶長11年)に江戸幕府将軍職を嫡男・徳川秀忠に譲り、自身は「大御所」(おおごしょ)と称して江戸幕府の基礎固めに奔走し続けました。特に朝廷対策には力を入れ、第107代「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)に対して譲位を迫り、1611年(慶長16年)には第108代「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)を強引に即位させています。
また、1613年(慶長18年)には「公家衆法度5ヵ条」(くげしゅうはっとごかじょう)を出し、公家の義務として「公家家業」(くげかぎょう:それぞれの家の学問)を修めること、そして宮中を守ることと断定しました。その延長線上にあるのが、1615年(元和元年)に出された禁中並公家諸法度の17ヵ条です。
冒頭の第一条では、天皇が行うべきことを以下のように規定しています。「天子が行うべきことは、第一に学問である。学ぶことで良き政事を行い、太平を実現できる。第二に和歌である。これは平安時代から続く我が国の文化であり、大切にしなくてはならない。」
この文面は、実は鎌倉時代に84代「順徳天皇」(じゅんとくてんのう)が著した「有職故実」(ゆうそくこじつ:公家・武家の儀式を研究する学問)の書、「禁秘抄」(きんぴしょう)からの抜粋・引用。江戸幕府からの命令ではなく、過去の天皇の言葉として伝えたところに、起草者である金地院崇伝のセンスの良さが見られます。
また、前年の1614年(慶長19年)、「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)の最中、朝廷が講和の仲立ちを申し出たとき、朝廷が政治にかかわることを嫌った徳川家康は、即座に拒否。つまり、第一条の「政事」(まつりごと)とは、「政治」のことではなく、国家の祭祀、儀式という意味。
こうして天皇が政治に関与しない体制を築くことで、反幕勢力が天皇のもとに集結する可能性をなくしたのです。さらに、この条文は、史上初めて天皇の役割を法的に規定したものでした。
第二条・三条は、朝廷内での序列に関する規定。これによれば、皇族で次期天皇になる可能性がある「親王」(しんのう)よりも、「三公」(さんこう:太政大臣・左大臣・右大臣)のほうが序列として上と定められました。これは、奈良時代に40代「天武天皇」(てんむてんのう)の皇子達が、朝廷の重職を独占した「皇親政治」(こうしんせいじ)に陥ることを防ぐことが目的であったと言われます。
第四条・五条では、三公と摂政・関白の人選について規定されています。これによれば、「摂家」(せっけ:天皇を補佐する摂政・関白を輩出した藤原家一族)出身であっても、「器用の仁体」(きようのにんたい:能力がある人)から選ぶことが定められました。
能力があれば、年齢が高い人物であろうと、再任であろうと問題ないというのです。一見すると、能力主義で開かれた朝廷になるように思えますが、実際にその能力を判断するのは江戸幕府。つまり摂政・関白の任命権を江戸幕府が握るということを意味しました。
事実、禁中並公家諸法度が出されたあと、関白になったのは、禁中並公家諸法度の制定にかかわった前関白・二条昭実だったのです。当時、関白の再任は極めて異例のできごとでした。
第七条は、武家官位(かんい:朝廷が授与する位階)について定められています。 公家に与えられる公家官位には、官位ごとに定員がありましたが、武家官位には、その定員をなくすという内容です。
すでに徳川家康は、1606年(慶長11年)に「武家官位は徳川家康の推挙なしに行ってはならない」と朝廷に申し入れており、新たな法度によって定員さえもなくしたことで、今後は実質的に、江戸幕府が自由に武家官位を与えることが可能となったのです。
ただし、官位の授与はあくまでも朝廷が行うこととし、江戸幕府はあくまで推挙するだけという形式はそのあとも維持されました。
第十一条では、関白・伝奏(ぶけでんそう)達の通達に背いた場合は、流罪(るざい:辺境や離島に送られる罪)と定められました。この伝奏は「武家伝奏」(ぶけでんそう)とも呼ばれ、朝廷と西国大名の監視のために江戸幕府が設置した「京都所司代」(きょうとしょしだい)と朝廷との間をつなぐ、橋渡し役。
つまり、武家伝奏を通して伝えられる江戸幕府の意向に背く場合、流罪にすると脅していたのです。そのため、天皇、公家らが吉野(現在の奈良県吉野郡)に花見に行くときでさえ、武家伝奏を通して江戸幕府の許可を得る必要がありました。
第八条では改元(かいげん:元号の改変)について、当面は漢(かん:紀元前202~紀元後220年の中国王朝)の元号から選ぶこととし、いずれは日本独自の作法で元号の候補を出して決定することが定められています。
また第十四条から第十七条までは、寺社に対する天皇の権限を制定。こうして禁中並公家諸法度は、改元や僧侶に対する評価といった、本来天皇が行うべき多くの事柄に江戸幕府が関与する根拠となりました。
ここまで見ると、朝廷は禁中並公家諸法度を一方的に押し付けられ江戸、幕府の支配下に置かれたように思えます。確かにこの法度は、江戸幕府が朝廷を支配下に置くために設けられたものでした。
しかし当時の朝廷は、前述の関白・二条昭実と「伏見宮邦彦親王」(ふしみのみやくにひこしんのう)が序列を巡って激しく対立し、また公家「猪熊教利」(いのくまのりとし)による、女官(にょかん:宮廷に仕える女性)との密通事件が起きるなど大いに混乱していた時期。
もはや、朝廷が自力で秩序を回復することは不可能だったのです。また、こうした事件の仲裁と審理を、徳川家康に依頼していたほどでした。禁中並公家諸法度の内容についても、徳川家康自身が朝廷に何度も赴き、親王、公卿(くぎょう:前述の三公に加え、大納言・中納言・参議らを加えた高官)と意見を交わし、書簡のやりとりをしています。
つまり禁中並公家諸法度とは、江戸幕府が一方的に朝廷に押し付けたのではなく、朝廷も納得のうえで受け入れたものと考えられるのです。