明治時代の重要用語

金本位制 
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「金本位制」(きんほんいせい)とは、イギリスで始まった正貨(せいか:金・金貨)を通貨の価値基準とする制度です。国が保有する金の量と同量の「兌換紙幣」(だかんしへい:正貨との引き換えが保障されている紙幣)を発行し、流通している兌換貨幣は金貨と自由に交換することができ、金の輸出入も自由に行えます。日本は、1897年(明治30年)から金本位制を採用し、世界的に信用が高まっていきました。

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金本位制 
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「金本位制」(きんほんいせい)とは、イギリスで始まった正貨(せいか:金・金貨)を通貨の価値基準とする制度です。国が保有する金の量と同量の「兌換紙幣」(だかんしへい:正貨との引き換えが保障されている紙幣)を発行し、流通している兌換貨幣は金貨と自由に交換することができ、金の輸出入も自由に行えます。日本は、1897年(明治30年)から金本位制を採用し、世界的に信用が高まっていきました。

金本位制の背景

産業革命を機に広がった金本位制

金本位制の最大のメリットは、世界中どこにおいても変わらない価値を持った「金」を基準とすることで、信用度のある輸出入が行えること。この金本位制の理念は、東ローマ帝国(4~15世紀のギリシアに成立したローマ帝国)の時代からあったとされています。

法的に初めて輸出入を実施したのは、世界に先駆けて「産業革命」(さんぎょうかくめい:石炭を使用したエネルギー革命とそれに伴う社会構造の変革)を起こしたイギリスで、1816年(文化13年)に始まりました。

産業革命によって大量生産が可能になった商品を世界各国へ輸出し、大量の外貨(がいか:海外通貨)を得る際、信用度のない外貨を得ても意味がありません。そこでイギリスは、この金本位制を近隣諸国やイギリス植民地などへ広げていく戦略を取ります。

当時の世界経済の中心はイギリスであったため、イギリスと交易する国々にとって、イギリスの制度を模倣すれば煩雑な貿易決済を効率化でき、為替(かわせ:現金の代わりに小切手・証書で商取引すること)リスクを低減できるメリットがありました。

1873年(明治6年)にドイツが、1876年(明治9年)にはフランスが金本位制へ移行。英仏独の主要3ヵ国が金本位制となったことにより、その後、世界各国に金本位制が広がっていったのです。その後、日本でもイギリス同様に産業革命が起こり、金本位制移行への道を開くこととなります。

明治期の品目別輸出入の割合

【1885年】

輸出品(3,715万円)
生糸 緑茶 水産物 石炭 その他
35.1% 18.0% 6.9% 5.3% 5.0% 29.7%
輸入品(2,936万円)
綿糸 砂糖 綿織物 毛織物 機械類 石油 鉄類 その他
17.7% 15.9% 9.8% 9.1% 6.6% 5.7% 3.6% 31.6%

【1899年】

輸出品(21,493万円)
生糸 綿糸 絹織物 石炭 その他
29.1% 13.3% 8.1% 7.1% 5.4% 37.0%
輸入品(22,040万円)
綿花 砂糖 機械類 鉄類 綿織物 毛織物 石油 その他
28.2% 8.0% 6.2% 5.4% 4.2% 4.1% 3.7% 40.2%

【1913年】

輸出品(63,246万円)
生糸 綿糸 絹織物 綿織物 その他
29.8% 11.3% 6.2% 5.3% 4.5% 42.9%
輸入品(72,943万円)
綿花 鉄類 機械類 砂糖 その他
32.0% 7.8% 7.0% 6.7% 5.0% 41.5%

日本に産業革命が起こる

日本では、1894年(明治27年)の「日清戦争」(にっしんせんそう)と1904年(明治37年)の「日露戦争」(にちろせんそう)前後の時代、「工場制機械工業」(こうじょうせいきかいこうぎょう:工場における機械を用いた生産方式、現在も主流となる形態)が、急速に発展した産業革命が起こります。

その中心を担ったのは紡績業。1880年代後半に相次いで設立された大規模紡績会社は、日清戦争後に成長を続け、1897年(明治30年)には、綿糸の輸出高が輸入高を完全に上回り、日本はいち早く綿糸輸出国となりました。しかし、原料の綿花を、清(しん:17~20世紀の中国王朝)・インド・アメリカなどからの輸入に依存したため、綿業貿易の輸入超過となっていきます。

そんななか、外貨獲得の大きな力を発揮したのが、日本国産の繭(まゆ)を原料とした生糸(絹の原糸)を生産する製糸業でした。幕末以来、生糸は最大の輸出品であり、製糸業は欧米向けの輸出産業として急速に発展します。

当初は、簡単な手動装置による「座繰製糸」(ざぐりせいし)でしたが、官営模範工場(かんえいもはんこうじょう:資本主義化を図るため明治政府が設営した工場)「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)に導入された輸入機械に学び、さらに技術改良した「器械製糸」(きかいせいし)が誕生。

器械製糸を使った小工場が長野県・山梨県などの農村地帯に続々と生まれていき、日清戦争の頃を境に、生産高において器械製糸が座繰製糸を上回ります。日露戦争後には、アメリカ向けを中心に生糸輸出はさらに伸び、1909年(明治42年)に清を追い抜き、世界最大の生糸輸出国となりました。

また綿織物業では、「豊田佐吉」(とよたさきち:トヨタ自動車の創業者)により「豊田式力織機」(とよたしきりきしょっき)が開発され、1890年代には水力・蒸気などを動力とする力織機の普及が進んでいきます。

日本では、日清戦争前後に軽工業による第1次産業革命が起き、続いて日露戦争前後に重工業による第2次産業革命が起きたのです。

日清戦争の賠償金をもとに

もうひとつ、日本が金本位制を確立した背景には、日清戦争で勝利した際に受け取った巨額の賠償金がありました。

日清戦争の賠償金2億両(現在の約1,000億円)はイギリス金貨で支払われ、明治政府は賠償金で得た多額の金貨をもとに、1897年(明治30年)、欧米諸国にならって金本位制を確立。欧米と同じ金本位制になったことにより、安定した貿易の条件が整うと同時に、海外からの資金導入の道も開かれていきました。

金本位制の概要

金本位制と管理通貨制

金本位制

金本位制

金本位制とは、通貨の信用を「金」によって保証する貨幣制度。すでにヨーロッパ諸国は、金を国際通貨とし、金の輸出入の自由を認めており、また自国の通貨制度も金を正貨として、国内市場では兌換紙幣(だかんしへい)を用いる体制を実現していました。

兌換紙幣とは、正貨との交換が保障されている紙幣。つまり、兌換紙幣を銀行に持ち込むと、一定の交換レートに従って必ず金に交換できるという仕組みです。

そのため兌換紙幣は、正貨の保有額によって、その発行額が左右されるという特徴を持っており、これが一国の経済規模を示す尺度ともされました。

ちなみに、現在の日本が導入しているのは、「管理通貨制度」。今、私達が使っている日本円は、金の裏付けはなく、日本政府及び中央銀行に対する信用により、10,000円札であれば、10,000円の価値がある物として流通しています。

しかし、19世紀においては、各国政府に現在のような信用度はなく、金保有量という裏付けを必要としたのです。日本も資本主義発展のため、国際経済、とりわけ金融市場との連携を図る必要があり、金本位制の確立へと動きました。つまり、日本の金本位制の成立は、近代資本主義成立の象徴でもあったのです。

金兌換日銀券の発行

日本の金本位制は、当時、総理大臣兼大蔵大臣であった「松方正義」(まつかたまさよし)と、日本銀行総裁「岩崎弥之助」(いわさきやのすけ:岩崎弥太郎[いわさきやたろう]の弟、三菱財閥[みつびしざいばつ]2代目)が指揮して確立されました。

日本では、1882年(明治15年)に中央銀行として「日本銀行」(にほんぎんこう)を設立。日本銀行の設立時は、まだ銀を正貨とする銀本位制でした。のちに金本位制へ移行する際、国内市場での銀価格の半減に呼応して、1円を金1.5gから0.75gへ改め、新しい金貨を鋳造します。また合わせて、金兌換日銀券も発行されました。

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