京都の名所として知られる「金閣寺」(きんかくじ)は室町時代に建立された寺院で、正式名称を「鹿苑寺」(ろくおんじ)と言います。金閣は、鹿苑寺の「舎利殿」(しゃりでん:釈迦の遺骨や遺灰、その代わりとなる仏像や経典を納める堂)なのですが、黄金色に輝く佇まいがあまりにも有名なため、鹿苑寺の通称になっているのです。 金閣には、室町時代に成熟を迎えた、貴族と武家、禅宗の文化を見ることができ、金閣を擁する鹿苑寺を含む「古都京都の文化財」は、1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
金閣寺のある衣笠山(京都府京都市北区と右京区)のふもとは「北山」(きたやま)と呼ばれ、平安時代から静かな都の郊外として、寺院や貴族の別荘が建つ土地でした。
金閣寺がある場所にも、もとは鎌倉時代に権勢をふるった公卿(くぎょう:国政の要職を担う高位の公家)西園寺公経(さいおんじきんつね)の山荘が建っていたのです。
これを譲り受けて、新たに金閣寺を建てた人物が、室町幕府の第3代征夷大将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)でした。
足利義満は10歳で将軍職に就き、在任期間中には「南朝」と「北朝」に分裂していた朝廷を統一し、また「明」(みん:現在の中国)との「勘合貿易」(かんごうぼうえき)で巨額の利益を手にして、室町幕府の最盛期を築いたのです。
足利義満は37歳だった1394年(明徳5年/応永元年)に、9歳の息子「足利義持」(あしかがよしもち)に将軍職を譲り、翌年には出家しますが、政治の実権は握り続けます。
出家後の足利義満は、北山の地に「北山殿」(きたやまどの)または「北山第」(きたやまだい)と呼ばれる邸宅を造営し、ここで政務を執りました。1399年(応永6年)頃には、のちに金閣と呼ばれる舎利殿が完成し、建物の内外に金箔を貼った壮麗な意匠が人々を驚かせたのです。
北山殿に鹿苑寺が開山するのは足利義満の死後のことで、造営当初の北山殿は足利義満の邸宅であり、幕政の中枢でした。また、足利義満は北山殿に後小松天皇を招いたり、明からの使者を迎えたりしており、内外の要人をもてなす迎賓館でもあったのです。
足利義満が北山殿で歌会や茶会を催し、明との貿易で手に入れた舶来の文物を披露し、芸能を鑑賞したことで、この時代には多彩な文化が栄えました。
生け花や茶道、古くからの大衆芸能を芸術として完成させた能楽や、鎌倉時代に中国大陸から伝わった「山水画」を発展させた「水墨画」などです。こうした14世紀末から15世紀前半までの室町時代初期に花開いた文化を、北山殿の地にちなんで「北山文化」と呼びます。
平安時代末期から、金閣が造営された室町時代にかけて国内では戦乱や飢饉が絶えず、苦しむ人々の心のよりどころとなる新しい仏教が生まれていました。念仏を唱えれば誰もが極楽浄土に生まれ変われると説く「浄土宗」や「浄土真宗」、また、座禅を組み、心を静めて悟りを求める「禅宗」です。
人々はこうした仏教に救いを求め、財力のある貴族や武家は寺や仏像を造りました。足利義満も、金閣の造営と同時期に「相国寺」(しょうこくじ:京都市上京区)に、巨大な仏塔「七重塔」を建てています。
贅を尽くした金閣と、その姿を映す鏡湖池(きょうこち)を中心とする庭園は極楽浄土をイメージしたと言われており、また金閣の建築には禅宗の寺の様式が見られ、この時代の風潮を反映しているのです。
金閣は、この当時にはめずらしかった3階建てで、1階には貴族の住まいの様式「寝殿造」(しんでんづくり)の特徴が見られます。
そのひとつが、戸をつり上げて開ける蔀戸(しとみど)です。
2階は蔀戸ではなく「引き戸」が用いられています。開け閉めに場所を取らない引き戸は、機能重視の武士の家でよく使われていました。
3階は仏舎利を安置する空間で、ここで見られる丸みのある窓枠や、欄干(らんかん)の装飾「逆蓮」(ぎゃくれん:ハスの花を逆さに伏せた形の装飾)は禅宗の仏堂の造りです。
このように金閣は、伝統的な貴族文化、新興の武家文化、中国大陸にルーツを持つ仏教文化が調和した、画期的な建築でした。
足利義満は1408年(応永15年)に51歳でこの世を去るまで北山殿で暮らし、そのあと、足利義満の遺言により、北山殿は禅寺となります。1420年(応永27年)に、当時すでに亡くなっていた禅宗の高僧「夢窓疎石」(むそうそせき)を名目上の開祖とし、足利義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられました。
開山当時の鹿苑寺については詳しい記録が残っておらず、現在の鹿苑寺にある「庫裏」(くり:寺院における僧侶の住まいや台所)は、明応・文亀年間(1492~1504年)の建物と考えられています。また、数寄屋造りの茶室「夕佳亭」(せっかてい)は、江戸時代の茶人「金森宗和」(かなもりそうわ)が手がけ、現存の夕佳亭は明治初期に再建した物です。
室町幕府の第8代征夷大将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の時代に起きた「応仁の乱」(おうにんのらん)は、1467年(応仁元年/文正2年)から1477年(文明9年)まで続き、都は焼け野原になります。鹿苑寺も焼き討ちに遭い、金閣は焼失を免れたものの、多くの建築や仏像を失い、境内は荒れました。
そのあと、室町幕府の衰退とともに将軍家の経済的庇護を失った鹿苑寺を再興したのは、江戸時代に鹿苑寺住職となった西笑承兌(さいしょう/せいしょう じょうたい)です。西笑承兌は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)に政治顧問として重用された僧で、荒廃していた鹿苑寺の主要な建築を再建し、復興に尽力しました。
明治時代になると、1870年(明治3年)の「大教宣布詔」(たいきょうせんぷのみことのり:天皇を神とし、神道を国教とする)の影響で廃仏毀釈運動が起こり、全国の寺院や仏像が破壊され、貴重な文化財が失われました。
この時期には鹿苑寺も庇護者と経済的基盤を失いましたが、1894年(明治27年)に庭園と金閣を一般に公開し、拝観料で収入を確保するようになります。今では年間500万人が訪れる鹿苑寺が、拝観者を受け入れるようになったのはこのときからです。
そのあと、鹿苑寺の舎利殿・金閣は、1897年(明治30年)に「特別保護建造物」に指定され、1904年(明治37年)には大規模な解体修理が行われました。さらに1929年(昭和4年)には国宝保存法施行に伴い、旧国宝に指定されます。
このように鹿苑寺と金閣は文化財として再評価されていましたが、1950年(昭和25年)、放火により金閣と仏像を焼失し、国宝指定が解除されました。放火事件の衝撃は大きく、再建費用には政府からの補助に加えて、全国各地から寄付が寄せられます。1952年(昭和27年)に着工し、1955年(昭和30年)に創建時の姿に復元されたのです。
さらに1987年(昭和62年)には金閣の「昭和大修復」が行われ、金箔を貼り替え、天井画と足利義満像が復元されました。1997年(平成9年)には茶室・夕佳亭の解体修理、2005年(平成17年)には「方丈」(ほうじょう:住職の居室)の解体修理も行われています。