室町時代の重要用語

北山文化 
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「北山文化」(きたやまぶんか)とは、貴族や公家から武士へと文化の担い手が移りつつあった室町時代の前期、室町幕府第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代に栄えた文化。その影響は建築・芸能・美術・文学など幅広い分野に及び、優美で華麗な文化遺産を現在に伝えています。なかでも、絢爛豪華な「金閣」は北山文化のシンボルとされました。芸能分野では「観阿弥」(かんあみ)・「世阿弥」(ぜあみ)父子が「能」(のう:面と美しい衣装を用いて舞う芸能)を大成。文学や絵画面では禅宗を中心とする「五山文学」(ござんぶんがく)や、中国文化の影響を受けた「水墨画」(すいぼくが)などが流行しました。北山文化が栄えたのは、室町時代の中で最も華やかな時期。こうした中から、現代につながる日本文化の美の原点が育まれたのです。

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「北山文化」(きたやまぶんか)とは、貴族や公家から武士へと文化の担い手が移りつつあった室町時代の前期、室町幕府第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代に栄えた文化。その影響は建築・芸能・美術・文学など幅広い分野に及び、優美で華麗な文化遺産を現在に伝えています。なかでも、絢爛豪華な「金閣」は北山文化のシンボルとされました。芸能分野では「観阿弥」(かんあみ)・「世阿弥」(ぜあみ)父子が「能」(のう:面と美しい衣装を用いて舞う芸能)を大成。文学や絵画面では禅宗を中心とする「五山文学」(ござんぶんがく)や、中国文化の影響を受けた「水墨画」(すいぼくが)などが流行しました。北山文化が栄えたのは、室町時代の中で最も華やかな時期。こうした中から、現代につながる日本文化の美の原点が育まれたのです。

3代将軍と北山文化

公家文化と武家文化の融合

足利義満

足利義満

室町時代初期、吉野(よしの:現在の奈良県吉野町)の南朝と、京都の北朝に分裂して対立していた朝廷を統一した足利義満は、1378年(永和4年)に京都・北小路室町(現在の京都市中京区)に邸宅の「花の御所」(はなのごしょ)を構えて政治の実権を我が物としました。

かつて鎌倉にあった幕府が京都に誕生したことで公家文化と武家文化が融合し、新たに誕生したのが「北山文化」(きたやまぶんか)です。

北山とは、足利義満が1394年(応永元年)に将軍職を長男の「足利義持」(あしかがよしもち)に譲ったのち、京都北西部に造営した豪華な別荘「北山殿」(きたやまどの)に由来しています。

贅の限りを尽くした多層建築

金閣寺

金閣寺

北山殿の中心に位置したのが、絢爛豪華な「金閣」です。これは和漢の建築様式を取り入れた3階建で、2階と3階部分には漆地に金箔が貼られたことでこの名がつきました。

内部は、1階が公家や貴族の邸宅に使われた「寝殿造」(しんでんづくり)。戸を吊り上げて風や光を取り込む「しとみ戸」が設けられています。

2階は、機能的な引き戸が印象的な、武家屋敷風の「書院造」(しょいんづくり)。3階は中国の寺院建築を取り入れた「禅宗様」(ぜんしゅうよう)で、丸みを帯びた窓が特徴。つまり金閣は公家・武家・仏教の文化がミックスされた多層建築だったのです。

足利義満が亡くなると、足利義持は遺言に従って北山殿を禅宗寺院に改めます。そして敷地内の建物の大半が解体され、ただひとつ残された金閣は足利義満の戒名から「鹿苑寺」(ろくおんじ)と名付けられました。これが、いわゆる「金閣寺」の正式名称です。

能を保護し大成させる

能

足利義満は、芸能の分野では能を手厚く保護したことで知られます。室町時代以前は「猿楽」(さるがく)や「田楽」(でんがく)などの民俗芸能が盛んに行われていました。

猿楽とはこっけいな物真似から始まった舞踊で、田楽とは田植え踊りを面白おかしく表現した舞踊です。こうした様々な芸能の要素をかけ合わせて生まれたのが能でした。

能を完成させたのは、観阿弥・世阿弥父子です。彼らは足利義満の支援を受けて芸を磨き、幽玄(ゆうげん:優雅で神秘的な趣)で美しい演劇としての能を、日本の伝統芸能へと進化させていきました。

将軍だけでなく当時の有力な武家、公家の中でも能は大流行します。また能の舞台の合間には、大名や僧侶など権威ある人々を笑い飛ばす「狂言」(きょうげん)という新しいスタイルの芸能も誕生。能と狂言は、時代を超えて現在に受け継がれる伝統芸能となりました。

禅宗の影響を受けた文化

中国から評価された五山文学

足利義満は禅宗を保護するため、南宋(なんそう:12世紀から13世紀後半の中国王朝)の制度にならって京都と鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう:中国から伝わった禅宗の一派)の寺院を5つずつ選び、格式の高い5つの寺という意味の「五山」(ござん)と位置付けます。

京都五山天龍寺(てんりゅうじ)・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺(けんにんじ)・東福寺(とうふくじ)・万寿寺(まんじゅじ)。鎌倉五山建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんかくじ)・寿福寺(じゅふくじ)・浄智寺(じょうちじ)・浄妙寺(じょうみょうじ)。五山の僧は幕府の保護を受けながら儒学の研究や漢文の創作に励みました。

ここから生まれた漢詩、日記、論説などの作品は「五山文学」と呼ばれました。その最盛期を築いたのが、「絶海中津」(ぜっかいちゅうしん)と「義堂周信」(ぎどうしゅうしん)というふたりの僧。特に絶海中津の「蕉堅藁」(しょうけんこう)と義堂周信の「空華集」(くうげしゅう)という漢詩集は、中国の文人達からも高く評価されています。

禅の世界を一色で表現

北山文化を特徴付ける美術に「水墨画」があります。これは墨を水でぼかすという技法で、濃淡や明暗を鮮やかに表現する絵画です。もとは鎌倉時代に中国から禅とともに伝わりましたが、足利将軍家が禅宗を保護したことで水墨画の人気が高まり、室町時代に大流行。

足利義満は明(みん:14世紀半ばから17世紀半ばにかけての中国王朝)との貿易で数多くの水墨画を輸入しました。また禅宗の僧侶は、禅の精神を表現する宗教画として水墨画を描くようになりました。

五山のひとつである京都の相国寺から「如拙」(じょせつ)、「周文」などの優れた画僧(がそう:画家である僧)が誕生し、のちに東山文化を代表する画僧の「雪舟」(せっしゅう)に大きな影響を与えています。

北山文化と東山文化

派手な北山文化と渋めの東山文化

室町時代を代表する文化には、北山文化の他にもうひとつ、その約80年後に栄えた「東山文化」(ひがしやまぶんか)があります。北山文化の象徴が、足利義満が建てた豪華絢爛な金閣であったのに対し、東山文化の象徴は、第8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)が建てた簡素で深みのある「銀閣」(ぎんかく)でした。

これは、公家文化の影響を色濃く受けた北山文化と、武家文化に深く根ざした東山文化の違いです。また芸能を見ても、能や狂言など華やかな芸能が育まれた北山文化に対して、東山文化ではわび・さびの精神を基調とする茶の湯や生け花などが誕生しています。

ひとことで言えば、北山文化は派手、東山文化は渋くて落ち着いた雰囲気の文化。しかし両者とも、その後の日本の文化や精神性に大きな影響を与えたことは間違いありません。

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