江戸時代に活躍した茶人、書家、そして禅僧でもあった「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)は、日本文化に多大な影響を与えた人物のひとりです。小堀遠州が開いた「遠州流茶道」(えんしゅうりゅうさどう)は、独自の哲学を持ち、茶の湯の精神に深く根ざしています。また、「作事奉行」(さくじぶぎょう)として「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)、「名古屋城」(愛知県名古屋市)の天守など、数多くの城郭と御殿の建築にも携わり、活躍しました。今日でも小堀遠州が遺した茶道、建造物は多くの人々に愛され続け、その価値は色あせることがありません。そんな小堀遠州の生涯と作り上げた文化について紹介します。
1579年(天正7年)に、小堀遠州は近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)で生まれました。父は「小堀正次」(こぼりまさつぐ)で、「豊臣秀吉」と「徳川家康」に仕えて、のちに備中松山藩(現在の岡山県高梁市)初代藩主を務めました。
小堀遠州は幼名を「作助」と名付けられ、元服すると「小堀政一」(こぼりまさかず)と名乗りました。なお、小堀遠州の名は通称とされます。もともと、小堀家は近江国で力を持っていた浅井家に仕えていました。
ところが、1573年(天正元年)の「小谷城の戦い」(おだにじょうのたたかい)により浅井家が滅亡すると、豊臣秀吉の弟「豊臣秀長」の家臣になりました。その後、1585年(天正13年)に豊臣秀長が、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)の「郡山城」(こおりやまじょう:奈良県大和郡山市)へ移ると、父・小堀正次とともに小堀遠州も郡山城に移り住みます。
小堀遠州が茶の湯に興味を持つようになったのは、10歳の頃と言われています。豊臣秀長は、郡山城に有名な茶人達を呼び、茶会を開くなど、郡山の地は茶の湯が盛んな土地となっていました。
そして、少年だった小堀遠州は城内で、茶の湯の大家「千利休」の点前(たてまえ:茶を点てること)を見学。それ以来、茶の湯に関心を持つようになった小堀遠州は茶道を志します。
1595年(文禄4年)には京都の伏見に居を移し、千利休の後継者として茶の湯を大成した「古田織部」(ふるたおりべ)を師としました。その後、徳川家康に仕えるようになり、「関ヶ原の戦い」では東軍として父とともに参戦。父・小堀政次が武功を上げ、関ヶ原の戦いのあとで「備中松山城」(岡山県高梁市)が与えられました。
1604年(慶長9年)に父・小堀政次が亡くなると、小堀遠州は家督を継承。同じ頃に「遠江守」(とうとうみのかみ:現在の静岡県西部、中部の一部の行政官)にも任命され、それをきっかけに小堀遠州の名が使われるようになりました。
少年時代から、茶の湯の英才教育を受けた小堀遠州は、現在まで続く茶道の流派「遠州流」(えんしゅうりゅう)の開祖として、多大な功績を残しています。
遠州流茶道は、師・古田織部が開いた流派「織部流茶道」を基盤に、千利休流の一部を混ぜ合わせながら、「綺麗さび」と呼ばれる茶風を特徴とする流派。
綺麗さびとは、質素で内省的な「侘び寂び」(わびさび)に、小堀遠州の美意識を加え、誰からも美しいと思われるような「客観性、調和の美」を感じられる流儀を指します。また、武家茶道である織部流を基盤にしていることから、武家らしいメリハリのある点前も特徴です。
小堀遠州は、江戸幕府将軍家の茶道指南役「宗匠」(そうしょう:芸事の師匠)にもなり、江戸幕府第3代将軍「徳川家光」の茶道の指南を務めました。生涯を通じて400回近くの茶会を開き、そこには大名、公家、さらには商人、医者、役者など様々な人々が参加し、招かれた数は総勢2,000人にものぼるとされています。
小堀遠州は、茶器にも独自の感性を発揮し、高取焼(たかとりやき)、志戸呂焼(しとろやき)、丹波焼(たんばやき)、膳所焼(ぜぜやき)など、茶陶の指導にもあたり、小堀遠州自らがデザインした茶道具の注文を行いました。
また審美眼にも優れ、小堀遠州が茶道具の優品を選定して名物となった茶器は、「中興名物」(ちゅうこうめいぶつ)として知られます。その他、小堀遠州が所持した道具目録は「遠州蔵帳」(えんしゅうぞうちょう)とされ、当時から格式の高い物として扱われていました。
小堀遠州は、1608年(慶長13年)に、駿府城修築における、作事奉行へ任命されたことを契機に、建築と造園の才能をも開花させます。作事奉行とは殿舎の造営、修理など土木建築を司る江戸幕府の役職。
小堀遠州は、備中松山城の再建と駿府城の改修を行い、1616年(元和2年)には、第107代「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)の住まいである「後陽成院御所」(京都府京都市)の建築も命ぜられました。
その他にも、「大徳寺」(だいとくじ:京都府京都市)の塔頭(たっちゅう:小寺院)である「孤篷庵」(こほうあん)、「南禅寺」(なんぜんじ:京都府京都市)の塔頭「金地院」(こんちいん)などの造園を手掛けたことでも知られています。
庭園の作風は、師・古田織部の影響を大きく受けており、それまであまり見られなかった直線を庭園に配置しているのが特徴です。また、1623年(元和9年)に「伏見奉行」(ふしみぶぎょう)に任ぜられ、京都六地蔵(ろくじぞう:現在の京都府宇治市)にあった自邸を奉行所として勤務。その後、伏見奉行を務めるかたわら、茶道の追求に精を出し、1647年(正保4年)に69歳で亡くなりました。