「古墳」(こふん)とは、土を高く盛り上げて築かれた古代のお墓で、日本では3世紀中頃~7世紀までの約400年にわたって盛んに造られました。埋葬されたのは、大王(おおきみ:大和政権の首長)や各地域を治めた豪族などの支配者層です。古墳と聞いてまず思い浮かぶのは、鍵穴のような形をした「前方後円墳」(ぜんぽうこうえんふん)ですが、他にも円形の「円墳」(えんぷん)、四角形の「方墳」(ほうふん)など様々な形状が存在します。大きさも多彩で、なかには400mを超える巨大な物もありました。古墳とともに見つかった埴輪(はにわ)や副葬品などから、その時代の社会背景を読み取ることが可能です。
弥生時代(やよいじだい:縄文時代に続く紀元前5世紀~紀元後3世紀の約800年間)に稲作が始まったことで、人々の暮らしは狩猟・採集に伴う移動型から、農耕を基本とする定住型へと移り変わっていきます。
生活の変化により、各地で水田を中心とする「ムラ」ができ、それらが統合されて「クニ」と呼ばれる政治集団へと発展していきました。弥生時代中期になると政治集団の首長達を埋葬する「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)と呼ばれる盛り土をしたお墓が造られ始めます。
しかしこの時代はまだ、お墓の形式はバラバラでした。3世紀中頃になると、近畿地方を中心に九州、関東から東北南部に至るまで、お墓の形や副葬品などに統一性が見られるようになります。それは、広い地域を支配する政治連合「大和政権」(やまとせいけん)の成立を意味しました。これによって、弥生時代に続く「古墳時代」という時代区分が生まれたのです。
支配者が大きな古墳を築いたのは、自らの地位や力を誇示するためでもありました。また古墳は大掛かりな工事が必要になるため、大王や首長が生きているときから計画され、工事が始まります。どのようにして巨大な古墳を築き上げたのでしょう。
古墳を造るという大規模工事で、土を掘り下げたり石を運んだりしたのは農民達でした。古墳の周りに濠(ほり)を切り拓き、そこで出た土を盛り上げて墳丘を造成。斜面と水平面を組み合わせたり、土や粘土、小石などの異なる素材を使い分けたりして、規則正しく積み上げていったのです。
大規模な古墳では墳丘が2段3段になった物や、濠が2重3重の物もあり、今で言う現場監督や測量士、石切職人など特別な知識や技術を持つスペシャリスト集団がチームで作業を行っていたと推測されます。
古墳には様々な形態があります。まずは、教科書にも掲載されるほど有名な前方後円墳です。前方後円墳は、円墳と方墳を連結させた形で、古墳のなかでも最高ランクとされており、大和政権と関係の深い人しか築くことができませんでした。
なお、このような形になった理由は現代まで解明されていません。次に紹介するのは、日本の古墳で一番数が多い円墳です。文字通り丸い円の形をしていて、小さな物は数m、大きな物は100mを超えることも。
そして四角形の方墳は、元々は最もランクが下と考えられていましたが、古墳時代後半の6世紀末以降、大王や有力豪族のお墓も前方後円墳から方墳へと変わっていきました。
埴輪は、埴(はに:きめの細かい粘土)で作られた円筒、動物・人形などを指し、大王を埋葬する前方後円墳を取り囲むように並べられました。
これは被葬者が埋葬されたお墓を聖域と考え、埴輪は、邪悪な者から守るための結界を意味していたためと言われます。埴輪は主に粘土を焼いて作られ、多種多様な形がありました。
モチーフは武人や巫女、馬・犬・猪などの動物、家や船、狩りをする人や踊る人々など題材もポーズも様々。埴輪作りには専門の職人が存在し、依頼主である被葬者の意向に沿って作られたと考えられます。
古墳の内部には、石で囲んで造られた石室(いしむろ・せきしつ)という墓室があり、被葬者はここに埋葬されました。埋葬されるのは基本的にひとりだけで、棺のなかには被葬者の遺骸と一緒に様々な副葬品が納められたのです。内容は時代によって変化していきました。
古墳時代前期の3〜4世紀頃に副葬品の主流だったのは中国製の銅鏡。光を反射する鏡には魔除けの力があると考えられていたからです。5世紀頃には武力社会の象徴である鉄製の甲冑や刀、鏃(やじり:矢の先の突き刺さる部分)などの武器が一緒に埋葬されました。
さらに大陸由来と思われる金箔が貼られた冠や帯、耳飾りなどのきらびやかな装飾品も出土しています。6世紀以降には国内の技術も進んだため、渡来品ではなく国内で作られた装飾品や土器が納められるようになりました。
古墳時代には中国や朝鮮半島との交易が盛んになり、仏教が伝来したのもこの時期でした。そして、仏教の伝来によって古墳時代が終わったと言われています。
そして仏教は宗教的な面ばかりではなく、科学・文化・政治などの最先端知識も伝えていたのです。それまで前方後円墳に埋葬された首長達は、地域を守る神として崇められていました。
しかし、仏教伝来とともに火葬の文化が伝わったことで莫大な労働力と費用のかかる前方後円墳は次第に築かれなくなり、古墳の規模は縮小。規模の小さい方墳や円墳が採用されるようになります。
そのあと、646年(大化2年)には身分によってお墓の規模を規定する法律「薄葬令」(はくそうれい)が発布されました。これにより墓はますます小さく簡素化され、やがて古墳時代は終わりを迎えていったのです。