「江華島事件」(こうかとうじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に李氏朝鮮(14~19世紀の朝鮮王朝)の首都・漢城(かんじょう:現在のソウル)の北西岸にある江華島で起こった、日本と李氏朝鮮との武力衝突のことです。日本の軍艦「雲揚」(うんよう)の挑発行為によって砲撃を受けたため、「雲揚号事件」とも呼ばれています。当時の李氏朝鮮は江戸時代の日本と同じように鎖国政策を取っていたのですが、これをきっかけに開国へ進むことになりました。
日本は鎖国していた江戸時代でも、李氏朝鮮とは交流がありました。明治時代になって明治政府が成立すると、新政権樹立の通告と正式な国交の樹立を求めて、李氏朝鮮へ国書を送ります。しかし当時の李氏朝鮮は、江戸時代の日本同様に鎖国政策を取っていました。
そのため、李氏朝鮮の最高権力者「興宣大院君」(こうせんたいいんくん)は、欧米に倣って近代化していく日本に強い不信感を持っていたのです。しかも日本側が送った国書のなかには「皇」、「勅」という文字が使われていました。
これは中国・朝鮮において皇帝だけが使えるとされていた文字。そのため清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)と従属関係を結んでいた李氏朝鮮に、国書の受け取りを拒否されてしまったのです。
1872年(明治5年)、明治政府はこれまで李氏朝鮮との国交の窓口だった対馬府中藩(つしまふちゅうはん:現在の長崎県対馬市)が廃藩となったこと、李氏朝鮮の草梁(そうりょう:現在の釜山[ぷさん]の一部)における旧対馬府中藩の駐在事務所「草梁倭館」(そうりょうわかん)を日本側が接収し、「大日本公館」と改名して外務省が管理することを報告するため、外務省の「花房義質」(はなぶさよしもと)を李氏朝鮮へ派遣します。
しかし草梁倭館は、李氏朝鮮政府が対馬府中藩との外交のために建設し、江戸幕府に使用を認めてきた施設。それを日本側が接収することに李氏朝鮮側の外交窓口である「東萊府」(とうらいふ)は激怒します。
さらに使者・花房義質が、洋服(西洋風の衣服)を着て蒸気軍艦「春日」(かすが)に乗ってきたことで、興宣大院君は「華夷秩序」(かいちつじょ:中国王朝・朝鮮王朝との外交関係)を乱す行為であると強く非難。大日本公館への水・食糧の供給を止め、日本人商人による貿易活動も禁止してしまいました。
この当時、日本としては何としても李氏朝鮮の開国と近代化を急ぎたい事情がありました。それは大国ロシア帝国が、李氏朝鮮を侵略する恐れがあったからです。
ロシア帝国が東アジアで不凍港(ふとうこう:冬季も海面が凍らない港)を手に入れるために南方に侵攻しようと考えれば、李氏朝鮮に侵攻する可能性が高く、そうなれば日本にとっては最大の脅威。
実際、幕末期にロシア帝国軍が対馬を強引に占拠して滞留する事件が起きており、明治時代に入っても樺太(からふと)で領有権を巡って争っていたのです。
そのため日本では、武力を持ってでも李氏朝鮮の開国と近代化を急ぎ、李氏朝鮮の「富国強兵」(ふこくきょうへい:経済を発展させ軍事力を強化する政策)を成し遂げようという「征韓論」(せいかんろん)を唱える主張が強まっていきました。
1873年(明治6年)に、征韓論派の「西郷隆盛」が使節として李氏朝鮮へ赴き直接交渉に当たることが決まります。しかしヨーロッパ視察から戻った「大久保利通」、「木戸孝允」(きどたかよし)などの反対に遭い、西郷隆盛ら征韓派が大量に下野(げや:退職して政府要人から民間人になること)する、「明治六年の政変」(めいじろくねんのせいへん)が起こったことで延期。
また李氏朝鮮内でも、興宣大院君が反興宣大院君派によって政権から退けられたことで、日本側への対応も和らぎました。両国間の緊張が緩んでいた1874年(明治7年)、台風で漂流した宮古島の島民54名が台湾で殺害されたのを理由に、「西郷従道」(さいごうつぐみち)が出兵して、台湾先住民を征討する事件が起こります(台湾出兵)。
さらに日本が長崎に5,000の兵を留めて李氏朝鮮への出兵に備えていると伝えられると、李氏朝鮮政府は驚いて外務省と応接する意思があることを伝えてきました。
明治政府としても内政を重視する意見が強くなり征韓論が弱まっていたなかで、武力ではなく交渉で李氏朝鮮の開国を促す方針を採用。そして1875年(明治8年)、釜山(ぷさん)において初めての日本と李氏朝鮮との政府間交渉が持たれました。
李氏朝鮮側から交渉が持ちかけられたことでようやく国交が開かれるかと思われましたが、李氏朝鮮政府の中央では、まだ失脚した興宣大院君の影響も強く残っており、ここでも結局交渉は進展しませんでした。
興宣大院君を支持する攘夷派が盛り返してくる前に交渉を進展させたい日本は、業を煮やして1875年(明治8年)5月に軍艦・雲揚、「第二丁卯」(だいにていぼう)を李氏朝鮮へ派遣。空砲による砲撃、射撃演習などの威圧行為をし、さらに朝鮮半島の西海岸を測量して9月には江華島沖へ至ります。
地形は国防上の重要な情報であり、測量はそれ自体が十分に挑発行為でもありました。9月20日、軍艦・雲揚の艦長「井上良馨」(いのうえよしか)達がボートに乗って江華島に近づくと、ついに江華島に設置されていた李氏朝鮮側の砲台から攻撃を受けました。
井上良馨達は小銃(しょうじゅう:ライフル銃)で応戦しつつ、全員が無事に軍艦・雲揚へ帰艦します。被害こそなかったものの、翌21日、艦砲射撃で反撃を開始し、江華島の砲台を撃破。
さらに翌22日には江華島のすぐ南にある永宗島(えいそうとう)にも攻撃を加え、永宗島の砲台を占拠して大砲36門、小銃などを戦利品として持ち帰りました。明治政府はこの事件をきっかけに、李氏朝鮮と国交を樹立する好機と考えました。
明治政府内の征韓派はすぐに軍隊を送るべきであると主張し、草梁の在留日本人を保護するため軍艦・春日を送ります。しかし李氏朝鮮は日本と開戦することに消極的で、草梁でも大きな混乱は見られませんでした。
それを受けて日本は、もし開戦となった場合に備えて下関(しものせき:現在の山口県下関市)に陸海軍を待機させつつ、開戦を回避して交渉による条約締結を目指して「黒田清隆」(くろだきよたか)を特命全権大臣として派遣しました。
江華島事件について、日本としては国旗を掲げていた軍艦・雲揚が攻撃されたことに対して謝罪を求めましたが、李氏朝鮮としては西洋船と誤認したことで起こった事故であり、日本船を攻撃する意思はなかったと反論。
双方の主張が食い違うなか、李氏朝鮮の興宣大院君をはじめとする攘夷派は武力による日本への抵抗を主張しました。しかし清の重臣「李鴻章」(りこうしょう)が日本と李氏朝鮮が戦争をすることは清側にとって不利益だと判断。
李氏朝鮮に対して和解を促したことで日本の主張が受け入れられ、「日朝修好条規」の締結に至りました。日朝修好条規は釜山、仁川(いんちょん)、元山(げんさん:現在の朝鮮人民共和国)の開港を定めたもので、これにより李氏朝鮮は開国への道を進んでいくことになります。
しかし、日本が李氏朝鮮において治外法権(ちがいほうけん:外国人が居住地の法律に従わなくても良い権利)を持ち、また李氏朝鮮の関税自主権(かんぜいじしゅけん:自国の関税を自主的に制定する権利)の欠如など、日本に有利な不平等な条約でもありました。
そのため李氏朝鮮では日本に対する反発が蓄積され、のちに「壬午事変」(じんごじへん:日本に対する大規模な反乱)を招くことにつながっていったのです。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 江華島事件 月岡芳年「雲揚艦兵士朝鮮江華戦之図」