「国会開設の勅諭」(こっかいかいせつのちょくゆ)とは、1881年(明治14年)10月12日に出された、10年後に国会を開設すると約束した第122代「明治天皇」(めいじてんのう)による文書です。「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)・「開拓使官有物払下げ事件」(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)などで国会開設の声が高まるなか、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)を中心とする明治政府は、国会をただちに開設するよう主張していた「大隈重信」(おおくましげのぶ)を明治政府内から追放。明治天皇による勅諭(ちょくゆ:諭すこと)で10年後には国会を開くことを公約したのです。この国会開設の勅諭は、自由民権運動の成果であるとともに、明治政府にとってはその自由民権運動を分裂させる手段でもありました。
1873年(明治6年)の「明治六年の政変」(めいじろくねんのせいへん)で、明治政府は分裂。このとき、明治政府を去った「板垣退助」(いたがきたいすけ)は、自分達が明治政府を去る直接の原因となった「征韓論」(せいかんろん:強硬策による李氏朝鮮[りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝]への開国要求)を巡る対応が、専制的であると「大久保利通」(おおくぼとしみち)らの現政府を批判します。
1874年(明治7年)1月に「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)を明治政府に提出。議会の設立、つまりは国会の開設を要求しました。
この民撰議院設立の建白書は、明治政府に拒否されましたが、日刊新聞「日新真事誌」(にっしんしんじし)が特報としていち早く掲載したこともあり、これを契機として自由民権・国会開設の世論が高まっていきます。
板垣退助は、1874年(明治7年)4月に郷里の土佐国(とさのくに:現在の高知県)で、「片岡健吉」(かたおかけんきち)らと政治結社「立志社」(りっししゃ)を興し、翌1875年(明治8年)には立志社を中心に、民権派の全国組織を目指して「愛国社」を設立。
また同時期に、自由民権論を論じた新聞・雑誌の発行が相次いだことも加わり、自由民権運動は士族(しぞく:旧武士層)民権派を中心に全国各地で激しさを増しました。
これに対して明治政府側も、時間をかけて「立憲制」(りっけんせい:憲法に基づいて統治されるだけでなく、政権も憲法によって制限される体制)へ移行すべきことを決め、1875年(明治8年)4月に「立憲政体樹立の詔」(りっけんせいたいじゅりつのみことのり)を布告。
これとともに、立法上の諮問機関として「元老院」(げんろういん)・「地方官会議」を、最高の司法機関として「大審院」(だいしんいん)を設置します。
そして1876年(明治9年)から、元老院にて憲法草案の起草も開始。その一方で、明治政府は、1875年(明治8年)6月の「讒謗律・新聞紙条例」(ざんぼうりつ・しんぶんしじょうれい)の制定により、言論活動に制限を加え、民権運動を厳しく取り締まりました。
立憲政体樹立の詔の際、板垣退助はいったん明治政府へ復帰。指導者を失ったこととともに、「西南戦争」(せいなんせんそう:最後の士族反乱)の影響もあり、自由民権運動は一時後退します。
しかし、板垣退助が再び明治政府を離れ、1878年(明治11年)9月に中断していた愛国社の再興大会が大阪で開催された頃から、士族だけでなく豪農層・商工業者・府県会議員などの間にも自由民権運動が広まっていきました。
そして、1880年(明治13年)3月に愛国社から発展して「国会期成同盟」(こっかいきせいどうめい)が結成され、国会開設を明治政府に迫る運動を展開していきます。
自由民権運動が高まるなか、明治政府内にも、国会をできるだけ早く開設することが必要だと訴えた人物がいました。1878年(明治11年)に大久保利通が暗殺されたのち、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)とともに明治政府の中心を担っていた「大隈重信」(おおくましげのぶ)です。
大隈重信は、1881年(明治14年)3月、「1年以内に憲法を制定し、2年後には国会を開設すべき」と提言。これに対し、国会開設はまだ早いと考える伊藤博文・「岩倉具視」(いわくらともみ)らとの間で内紛が勃発。
また、同時期に起こった開拓使官有物払下げ事件が、国会開設の勅諭発布への引き金となってしまいます。開拓使官有物払下げ事件とは、北海道の開拓使所属の官有物を、開拓使長官「黒田清隆」(くろだきよたか)が、同じ旧薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)出身で政商(せいしょう:明治政府と強い繋がりがある豪商)「五代友厚」(ごだいともあつ)らに対して、不当に安い価格で払い下げようとした事件です。
この事件が、新聞にスクープされると、世論の明治政府批判は一層激しさを増しました。伊藤博文らは、この世論に対応するために、3つの措置を講じます。この払い下げを中止すること、払い下げに反対していた大隈重信をこの世論の動きと関係ありとみて罷免すること、そして国会開設の勅諭の公布です。これを「明治十六年の政変」と言います。
明治政府への激しい批判の中で、国会開設の勅諭が1881年(明治14年)10月12日に公布されました。明治政府は、明治時代に入って以降、徐々に立憲制を樹立しようと画策。1875年(明治8年)に元老院を設け、1878年(明治11年)に府県会を開くなど、次第に基礎をつくり、順序に従って前進する方法を採ってきたのです。
国会開設の勅諭では、このことをしっかりと伝えた上で、10年後の1890年(明治23年)に国会を開設することを国民へ約束しました。一方で憲法についても、明治政府の官僚が起草する原案を明治天皇自ら裁定し、公布するとの姿勢が明確に示されています。
実は、この国会開設の勅諭は、自由民権運動への対応であるとともに、自由民権運動を分裂させる狙いもありました。国会開設の勅諭をしっかり読むと、明治政府は明治天皇の言葉を借りて、次のように宣言しています。
つまり、国会開設を約束することで、自由民権運動の穏健派と早急な国会開設を進める 急進派を分裂させ 、自由民権運動の縮小を図ったのです。その上で急進派には、これ以上騒げば弾圧を加えると宣言。これによって、明治政府は政局の主導権を取り戻すことに成功しました。
国会開設の勅諭以後、自由民権運動は政党の結成へと進みます。明治14年の政変直後の1881年(明治14年)10月に、国会期成同盟を母体に、板垣退助を総理(そうり:党首)とし、フランス流の急進主義(きゅうしんしゅぎ:革命による根本的な改革を図る思想)を取る「自由党」(じゆうとう)が誕生。
翌1882年(明治15年)には、大隈重信を党首として、イギリス流の議院内閣制(ぎいんないかくせい:政治の中核を担う内閣を議会の承認によって成立させる体制)を目指す「立憲改進党」(りっけんかいしんとう)が結成されます。
また明治政府側も、同年に「福地源一郎」(ふくちげんいちろう)らを中心に保守的な「立憲帝政党」(りっけんていせいとう)を結成。ただ、この立憲帝政党は、民権派に対抗できるほどの勢力にはなれず、翌1883年(明治16年)に解党しています。