大正時代の重要用語

国際連盟 
/ホームメイト

「国際連盟」は、「第1次世界大戦」後の「ヴェルサイユ条約」に基づき、1920年(大正9年)に設立された世界初の国際平和維持機構です。当時のアメリカ大統領「ウッドロウ・ウィルソン」の提唱により設立。本部はスイスのジュネーブに置かれ、創設時はイギリス、フランス、イタリア、日本が常任理事国(任期のない理事国で重要事項における決議権を持つ)となり、加盟国は42ヵ国を数えました。アメリカは国内議会の反対で加盟せず、ドイツ、ソ連(1917年[大正6年]にロシア帝国崩壊)は除外。この国際連盟は、「第2次世界大戦」の防止に失敗したことから、1946年(昭和21年)4月20日に活動を終了しました。この前年の1945年(昭和20年)10月24日には、後継の「国際連合」(国連)が誕生しており、国際連盟のいくつかの組織は、国際連合へ引き継がれています。

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「国際連盟」は、「第1次世界大戦」後の「ヴェルサイユ条約」に基づき、1920年(大正9年)に設立された世界初の国際平和維持機構です。当時のアメリカ大統領「ウッドロウ・ウィルソン」の提唱により設立。本部はスイスのジュネーブに置かれ、創設時はイギリス、フランス、イタリア、日本が常任理事国(任期のない理事国で重要事項における決議権を持つ)となり、加盟国は42ヵ国を数えました。アメリカは国内議会の反対で加盟せず、ドイツ、ソ連(1917年[大正6年]にロシア帝国崩壊)は除外。この国際連盟は、「第2次世界大戦」の防止に失敗したことから、1946年(昭和21年)4月20日に活動を終了しました。この前年の1945年(昭和20年)10月24日には、後継の「国際連合」(国連)が誕生しており、国際連盟のいくつかの組織は、国際連合へ引き継がれています。

国際連盟設立の背景

世界戦争で平和の必要性を痛感した国際社会

19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ諸国の利害関係を背景に、1914年(大正3年)6月にバルカン半島で起こった「サラエボ事件」に端を発して、第1次世界大戦が勃発。オーストリア=ハンガリー、ドイツを中心とした同盟国と、イギリス、フランス、ロシア帝国、アメリカなど連合国間で繰り広げられた戦争であり、日本は「日英同盟」を理由に連合国側で参戦しました。4年にも及んだこの世界的な戦争は、1918年(大正7年)ドイツの休戦申し入れにより、ついに終了します。

そして、翌1919年(大正8年)1月からフランス・パリで「パリ講和会議」が開催。日本は「西園寺公望」(さいおんじきんもち)らを全権大使として派遣し、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともにパリ講和会議で中心となった5ヵ国に加わります。

約半年間続いたパリ講和会議ののち、同年6月に講和条約として「ヴェルサイユ条約」が調印。この条約の内容は、敗戦国のドイツ側に巨額の賠償金を課すとともに軍備を制限し、ドイツ本国領土の一部を割譲(かつじょう:領土を譲り渡す)させるという、ドイツ側にとっては厳しいものでした。

一方、第1次世界大戦で疲弊した国際社会には平和を求めるムードがありました。これを背景に、パリ講和会議では、国際紛争を平和的に解決するための国際機関の必要性が話し合われ、その設置を決定。そして、ヴェルサイユ条約調印の翌1920年(大正9年)に国際連盟が創設されました。

国際連盟の概要

日本が常任理事国の一角に

新渡戸稲造

新渡戸稲造

1920年(大正9年)に発足した国際連盟は、本部をスイスのジュネーブに置き、日本はイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国に就任。

また、「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)が本部の事務局次長に就任するなど、新興国としての存在感を示しました。

国際連盟の特徴

国際連盟は、軍備縮小、安全保障による紛争の平和的解決、委任統治による少数民族の保護などを理念に設立されています。

委任統治とは、第1次世界大戦後、国際連盟が敗戦国であるドイツとトルコの旧植民地などについて採用した統治方式で、国際連盟に委任された国が非独立地域を統治する方式。ドイツの占領下だった南洋諸島(現在のパラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦など)は日本に統治が委任され、植民地に近い形となりました。なお、第2次世界大戦後の信託統治は、この委任統治方式を受け継いだものです。

国際連盟の問題点

国際連盟の設立当初、提唱者のアメリカが国内における上院の反対で参加することができず、国際連盟は列強の一角を欠くスタートを切りました。これは当時、アメリカが取っていた「モンロー宣言」(モンロー主義)が背景にあります。1823年(文政6年)にアメリカの大統領「ジェームズ・モンロー」が、ヨーロッパへ干渉しない代わりに、アメリカ大陸へのヨーロッパ諸国の干渉を拒否すると宣言。いくつかの例外はあるものの、以降モンロー宣言がアメリカ外交の基本方針となっていました。

では、なぜアメリカは第1次世界大戦に参戦したのかという疑問が湧きます。アメリカは戦況を見つつ、「これは民主主義のための戦争だ」と位置付けたことにより、遅れて連合国側へ参戦したわけでした。結局、このあともアメリカはモンロー宣言により、国際連盟が後継の国際連合に代わるまで、国際平和維持機構へ参加することはなかったのです。

また、国際連盟の創設時には、第1次世界大戦の敗戦国ドイツは参加を許されず、1917年(大正6年)のロシア革命により、世界初の社会主義政権が誕生していたソ連は招待されていません。のちにドイツは、1926年(昭和元年)、ソ連は1934年(昭和9年)にそれぞれ国際連盟へ加盟し、常任理事国入りしていますが、国際連盟は国際問題を解決する総合的な力に少なからず問題を抱えていました。

もうひとつ、国際連盟の大きな問題点として、すべての課題の解決に全会一致の法則を定めたことがあります。設立当初でも42ヵ国、最大で60ヵ国近い加盟国があったなか、すべての国の賛成を得ることは非常に困難。これを省みて、後継の国際連合では常任理事国5ヵ国と非常任理事国9ヵ国の賛成があれば、採決できるように修正されていました。

また、日本は在米日本人がアメリカ国内において排斥(はいせき)の被害に遭っていたことから、国際連盟の規約に人種差別の撤廃を提案します。多くの国が賛成するなか、イギリス、アメリカの反対で、人種差別撤廃提案は棄却。この人種差別撤廃提案は、国際連盟発足時に規約で取り決めてあったため、特例としてアメリカも採決に加わっていました。

日本は1933年(昭和8年)に国際連盟脱退

日本は第1次世界大戦によって、中国大陸の山東省(さんとんしょう)のドイツ権益の継承、満州、及び内モンゴルでの権益を得ましたが、中華民国(清王朝を排した新政権)国内ではこれに反発し、民族運動が高まります。

一方、日本国内では軍、右翼活動家が日本政府の中華民国との協調外交を軟弱外交だと非難しました。こうした背景から、1931年(昭和6年)に「満州事変」(まんしゅうじへん:日本軍が満洲の奉天[ほうてん]において満州鉄道の線路を爆破した事件)が勃発。

これにからむ一連の日本の動きに対して、中華民国が国際連盟へ提訴。国際連盟は「リットン調査団」を満洲へ派遣し、その報告書を1932年(昭和7年)に公表。報告内容は満州事変における日本側の主張を否認するものであり、日本はこれに強く反対しました。

1933年(昭和8年)2月の国際連盟臨時総会において、満州国(まんしゅうこく:日本が中国北東部に樹立した傀儡[かいらい:思いのまま動かされる]政権)承認の取り消しと満州鉄道付属地(まんしゅうてつどうふぞくち:行政権を持つ鉄道会社の所有地)への撤兵を日本側に求める勧告を採択します。

これを受け、同年3月に日本は国際連盟から脱退。以降、日本は国際社会から孤立する道を歩んでいきました。

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