明治時代の重要用語

小村寿太郎 
/ホームメイト

「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)は、明治時代に活躍した政治家です。大学南校(だいがくなんこう:現在の東京大学)に入学後、アメリカ・ハーバード大学に留学して法律を専攻。帰国後は司法省に入省し、のちに外務省に移って駐米・駐露公使を歴任します。1902年(明治35年)には、第1次「桂太郎」(かつらたろう)内閣の外務大臣として日英同盟を締結させ、1904年(明治37年)に始まった「日露戦争」(にちろせんそう)ののちに、全権大使としてロシア帝国との交渉に当たりました。そして1911年(明治44年)、「日米通商航海条約」(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)を締結し、悲願であった関税自主権の回復を実現。外交を通して、日本が先進国の仲間入りをするために尽くした人生でした。

明治時代の重要用語

小村寿太郎 
/ホームメイト

文字サイズ

「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)は、明治時代に活躍した政治家です。大学南校(だいがくなんこう:現在の東京大学)に入学後、アメリカ・ハーバード大学に留学して法律を専攻。帰国後は司法省に入省し、のちに外務省に移って駐米・駐露公使を歴任します。1902年(明治35年)には、第1次「桂太郎」(かつらたろう)内閣の外務大臣として日英同盟を締結させ、1904年(明治37年)に始まった「日露戦争」(にちろせんそう)ののちに、全権大使としてロシア帝国との交渉に当たりました。そして1911年(明治44年)、「日米通商航海条約」(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)を締結し、悲願であった関税自主権の回復を実現。外交を通して、日本が先進国の仲間入りをするために尽くした人生でした。

外務官僚時代

第1回文部省の公費留学生

小村寿太郎は1855年(安政2年)に飫肥藩(おびはん:現在の宮崎県日南市)で誕生。6歳のときに飫肥藩校「振徳堂」(しんとくどう)に入学します。品行方正で成績優秀な小村寿太郎は、特待生として授業料を免除されていたほどでした。

教員の「小倉処平」(おぐらしょへい)は小村寿太郎を高く評価し、飫肥藩と交渉して小村寿太郎の国内留学を認めさせ、15歳で東京へ出て大学南校の法学部に進学。しかし国内での学習に満足できず、その後有志を募って、明治政府の文部省に海外留学させてもらうことを直訴します。

これが認められ、1875年(明治8年)、第1回文部省留学生としてアメリカ・ハーバード大学への留学が叶いました。ここで小村寿太郎は驚異的な記憶力を発揮し、読んだ論文はすべて記憶。卒業後はニューヨークの法律事務所に勤務し、実務経験を積みました。

困窮した外務官僚

5年間のアメリカ生活を終えて帰国した小村寿太郎は、司法省(しほうしょう:司法行政を管轄した中央省庁)に入省。

当時の日本政府は、幕末に江戸幕府が欧米諸国との間に締結した不平等条約の改正に向けた準備を進めていた真っ最中。そのため小村寿太郎のような、英語に堪能かつ法律に詳しい人材が必要とされていました。1884年(明治17年)には29歳で外務省へ異動。

この頃、父が経営していた商社が倒産、小村寿太郎は莫大な借金を抱え込み、恩師・小倉処平の遺児も養育していたため、小村寿太郎は生涯貧しい生活を強いられました。常に一張羅のコートを着て、雨が降っても傘をささず、毎日徒歩で通勤していたと伝えられます。

そんな極貧生活の中でも日本人としての誇りを失うことなく、明治政府が打ち出した「欧化政策」(おうかせいさく:不平等条約改正のために、日本が文明国であることを欧米諸国へ示した政策)があまりに妥協的だとして、外務官僚でありながらも公然と反対を表明しました。

北京で情報収集

桂太郎

桂太郎

小村寿太郎は官僚としては極めて優秀で、藩閥(はんばつ:旧薩摩藩[さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市]など、特定の藩出身者が明治政府の重職を独占すること)にも属さず、抜群の語学力と高い交渉能力で、明治政府内において次第に頭角を現します。

1893年(明治26年)に、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)の公使館(こうしかん:大使館)参事官(さんじかん:調整役を担う事務職)として北京へ赴き、駐清臨時代理公使(こうし:大使)に就任。

情報収集のため、あらゆる方面に顔を出す小柄な小村寿太郎は、欧米諸国の外交官達から「ねずみ公使」と呼ばれています。この頃、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀朝鮮王朝)の内乱への対応を巡り、日本と清は極度の緊張状態にありました。

小村寿太郎は堂々と日本の立場を欧米諸国に主張し、理解を求めています。その一方で、厳罰を覚悟して独断で清に対し日本との国交断絶を通告するなど、一貫して日本の誇りを守るための行動を取り続けたのです。

1894年(明治27年)に始まった「日清戦争」(にっしんせんそう)では戦地へ赴き、日本軍占領地域の統治を担当。このとき、のちに内閣総理大臣となる桂太郎と知り合っています。

日露戦争

大国ロシア帝国との対立

日清戦争後、小村寿太郎は公使として李氏朝鮮へ赴任。しかし1896年(明治29年)、李氏朝鮮国王が、ロシア帝国公使館で政務を執るという「露館播遷」(ろかんはせん:26代李氏朝鮮王・高宗[コジョン]がロシア帝国公使館へ逃亡した事件)が勃発。

これによって朝鮮半島に親露派政府が成立してしまいます。これは明らかに、公使である小村寿太郎の失策。しかし、小村寿太郎はロシア帝国と粘り強い交渉を重ね、李氏朝鮮における日本とロシア帝国の利権が対等であることを、ロシア帝国側に認めさせることに成功しています。

その後、日本とロシア帝国との対立は再び激化し、1900年(明治33年)には小村寿太郎が駐露公使に任命され、対応に当たりました。同年、清で内乱「義和団事件」(ぎわだんじけん:宗教的秘密結社・義和団[ぎわだん]主導の農民反乱)が起きると、再び小村寿太郎は公使として清へ赴き、反乱の事後処理とロシア帝国、欧米諸国との交渉に当たることに。

この頃、欧米列強はこぞって清や朝鮮を植民地にしようと狙っていたため、外交力が極めて重要でした。このとき、小村寿太郎が目覚ましい活躍をしたおかげで、日本は大陸において存在感を示すことができるようになったのです。

日英同盟を結んだ意味

この活躍を高く評価した桂太郎は、第1次内閣の外務大臣として小村寿太郎を迎え入れます。当時、日本国内ではロシア帝国との開戦はやむなしという風潮が主流になり始めていました。

小村寿太郎は、日本が他国と同盟を結び、ロシア帝国が日本に攻め込めない状況を作るため、1902年(明治35年)にイギリスとの間に「日英同盟」(にちえいどうめい)を締結。それでもロシア帝国との関係は悪化の一途を辿り、ついに小村寿太郎はロシア帝国との交渉を諦め、戦うしかないという意見書を明治政府へ提出しています。

日露戦争開戦後、小村寿太郎はロシア帝国とのこれまでの交渉経緯を世界に向けて公表。日露戦争の大義が日本側にあることをアピールし、国際的な支援を取り付けることに成功しています。

断腸のポーツマス条約

戦況は日本有利のまま進みましたが、このまま戦いが続けば日本が経済的にも戦力的にも立ち行かなくなることは誰の目にも明らかでした。そこで1905年(明治38年)5月、「日本海海戦」(にほんかいかいせん)で勝利した日本は、一気に講和(戦争を終結すること)に持ち込むことを画策。

小村寿太郎は、人脈を頼って中立の立場であったアメリカの「セオドア・ルーズベルト」大統領に仲介を依頼します。こうして同年7月、小村寿太郎を全権大使としてアメリカ・ポーツマスで、日露講和会議が開催されました。

しかし、ロシア帝国側の全権大使である「セルゲイ・ウィッテ」の強硬な姿勢によって交渉は難航。最終的に朝鮮半島を日本へ委ねるという条件と、樺太(からふと)の半分を日本が領有するという条件で交渉は成立しましたが、賠償金の支払いは認められませんでした。

これ以上は無理と判断した小村寿太郎は、断腸の思いでポーツマス条約に署名。その夜、小村寿太郎はあまりの悔しさにホテルの一室で号泣したと伝えられます。そして、日本に戻った小村寿太郎を待っていたのは、国民からの罵声でした。

日露戦争で多くの重税負担を強いられたうえに、親族・知人を失った人々の怒りはすさまじく、小村寿太郎やその家族を殺すという脅迫の声がやむことはありませんでした。

日本の未来を案じて

米英との関係改善

小村寿太郎は、1908年(明治41年)、第2次桂太郎内閣の外相に就任。この頃の小村寿太郎にとって最重要課題は、日本が国際社会の中で生き残っていくために、日英同盟を重視しつつ、アメリカとの良好な関係を保つということでした。

同年、小村寿太郎はルーズベルト大統領との間で、日本とアメリカが互いに領土を侵攻せず、自由な通商を行うことなどを約束した「高平・ルート協定」に調印。一方のイギリスに対しても、1910年(明治43年)に「日英博覧会」(にちえいはくらんかい)をロンドンで開催するなど、両国の関係維持に努めています。

不平等条約の改正

そしてもうひとつ、小村寿太郎が目指したのは、明治政府の懸案であった日本と欧米諸国の間で結ばれた不平等条約の改正でした。

小村寿太郎は粘り強く交渉を重ね、1911年(明治44年)、ついにアメリカとの間に「日米通商航海条約」(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)を締結。

これによって、悲願であったアメリカとの不平等条約の完全な改正が達成されたのです。その後、イギリスとの間にも新たな通商航海条約が締結され、フランス、ドイツなどとも不平等条約の改正が実現しました。同年、政界を引退した小村寿太郎は、神奈川県三浦郡葉山町へ転居。

相変わらず貧しい生活でしたが、好きな酒を飲み、読書を楽しみながら余生を過ごしています。しかし直後に健康を害し、1911年(明治44年)11月に他界。日本を欧米諸国と並ぶ強国へと変貌させるために奔走した、56年の生涯に幕を閉じたのです。

小村寿太郎をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード