「金剛峯寺」(こんごうぶじ:和歌山県伊都郡)は、真言宗の開祖(かいそ)で「弘法大師」(こうぼうだいし)の名で知られる「空海」(くうかい)が、810年(弘仁元年)に開いた真言宗の総本山。金剛峯寺という名は、「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)という経文が由来。金剛峯寺のある高野山は、東西6km・南北3kmに及ぶ山で、標高約800mの盆地状の平坦地に100ヵ寺以上の寺院が密集。境内の総坪数は48,295坪で宗教都市とも言える場所です。総本山金剛峯寺という場合は、「一山境内地」(いっさんけいだいち)と称する、高野山全体を指します。東西約60m・南北約70mの主殿(本坊)は、真言密教の根本道場として信仰を集めるとともに、特殊な伽藍(がらん:寺社内の建物)配置を伝える山岳寺院としても知られています。また、金剛峯寺は、2004年(平成16年)に登録された世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部となっています。
空海は真言宗を布教するにあたり、その手法として真言密教の世界観を表した「曼荼羅」(まんだら)を描くことに力を注ぎました。
特に「大日経」(だいにちきょう)・「金剛頂経」(こんごうちょうきょう)を真言密教の2代経典と考え、それに基づいて描かれた「胎蔵界曼荼羅」(たいぞうかいまんだら:真理を実践的な側面としてとらえる世界)と「金剛界曼荼羅」(こんごうかいまんだら:真理を論理的な側面としてとらえる世界)の2つを「両界曼荼羅」(りょうかいまんだら)として、密教哲学の基盤に据えたのです。
実は、空海がこの地を真言密教の根本道場として選んだのは、高野山の形も関係していると言われています。開山当初より、高野山の地形を胎蔵界曼荼羅の中心部の「大日如来」(だいにちにょらい:世界・宇宙を体現した仏)を核とする「中台八葉院」(ちゅうだいはちよういん)になぞらえられてきました。また空海自身は、高野山を金剛界曼荼羅にも見立てています。
空海と高野山との縁は、次のように語り継がれています。空海が2年間の唐(とう:7~10世紀の中国王朝)での留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途に就くときのこと。
空海が「伽藍建立の地を示し給え」と念じ、持っていた三鈷(さんこ:密教の修法に用いる仏具のひとつ)を投げると、その三鈷は空中を飛行してはるか彼方へ飛び去ります。空海は帰国後、この三鈷を求め、教えを説きながら各地を巡り歩きました。
そして、大和国宇智郡(やまとのくにうちぐん:現在の奈良県五條市)で、2匹の犬を連れた狩人に出会うと、狩人は「あなたの求めている良い場所がある。この犬に案内させましょう」と言い、姿を消します。空海はその犬に導かれるまま、紀の川を渡り険しい山中に入ると、1本の松の木に三鈷がかかっているのを発見。
それが、現在「壇上伽藍」(だんじょうがらん)が建つ場所です。空海は、この地こそ真言密教にふさわしい地であると、山を開くことを決意。なお、このとき出会った狩人は、今日高野山に祀られている「狩場明神」(かりばみょうじん)であるとされています。
832年(天長9年)、体調が悪化した空海は、真言宗のもうひとつの拠点「東寺」(京都府京都市)を離れ、自ら終焉の地と決めていた高野山へ。
実は、高野山はその時点では堂宇の建立はほとんどなく、周りを見回しても原始林ばかりという状況でした。空海は、自身亡きあとの高野山を甥の「真然」(しんぜん)に託します。
しかし、山上ゆえの厳しい風土や、都から遠い地理的条件に阻まれ、なかなか拠点としての造営は進まず、一進一退を繰り返しました。高野山の伽藍整備がようやく一段落し、組織として機能するようになったのは、平安時代中期以降のことです。
空海が高野山を開山した際、真っ先に建立に取り組んだ「壇上伽藍」と「奥之院」(おくのいん)が高野山の二大聖地。また、総本堂「金堂」や「根本大塔」など、全部で19もの諸堂が建ち並んでいます。また、奥之院は、空海が現在も瞑想を続けているとされる建物。
「生身供」(しょうじんぐ:空海へ食事を届ける儀式)により、毎日朝食として午前6時、昼食として午前10時半に捧げられています。さらに、壇上伽藍の東北に位置するのが、東西60m、南北約70mの金剛峯寺の「主殿」(本坊)。
金剛峯寺と呼ぶ場合、高野山真言宗の管長(かんちょう:最高責任者)が住むこの主殿のことを指します。このように様々な建物を備えた真言宗の総本山金剛峯寺は、境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを現在も有しています。