平安時代の重要用語

公家・公家社会 
/ホームメイト

公家(くげ)とは、天皇に仕え、政務や儀式を行った貴族階級の官僚達のことです。古典文学や古い絵巻物は、公家達が歌を詠み、囲碁や蹴鞠(けまり)で遊ぶ優雅な様子を描いていますが、本業として何をしていたのかは、あまり知られていません。今回は、公家社会の仕組みや階級、その仕事ぶりや歴史のなかで果たしてきた役割を紹介します。

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公家(くげ)とは、天皇に仕え、政務や儀式を行った貴族階級の官僚達のことです。古典文学や古い絵巻物は、公家達が歌を詠み、囲碁や蹴鞠(けまり)で遊ぶ優雅な様子を描いていますが、本業として何をしていたのかは、あまり知られていません。今回は、公家社会の仕組みや階級、その仕事ぶりや歴史のなかで果たしてきた役割を紹介します。

公家社会の序列

家格で決まる職種と序列

蹴鞠

蹴鞠に興じる公家

平安時代に政治的、文化的に栄華をきわめた公家の前身は、飛鳥時代から強い支配力を持っていた豪族達でした。

そのなかでも藤原氏は天皇と姻戚関係を結んで一族を増やし、また新興の一族も台頭してきます。やがて、これらの氏族が朝廷の要職を占め、それを世襲するようになり、公家の家柄が限定されていきました。

平安時代の末期までには、家柄ごとに就任できる役職が固定し、それぞれの専門分野であり序列でもあった「家格」(かかく)が確立します。家格は序列の高い順に①摂家(せっけ)②清華家(せいがけ)③大臣家(だいじんけ)④羽林家(うりんけ)⑤名家(めいか)⑥半家(はんけ)の6つがありました。

家格を捨て、武士に転身した公家達

平安時代の天皇は、安定的な皇位継承のために多くの皇子をもうけましたが、全員を皇族として遇していては朝廷の財政がひっ迫してしまいます。そこで皇位継承の可能性がなくなった皇子達は天皇の臣下に降りる、臣籍降下(しんせきこうか)が行われるようになりました。

臣下に降りた皇族は公家になりましたが、先述のように朝廷の役職は家格によって限定されていたため、元皇族と言っても2代目、3代目にもなると地位の保証は望めません。そうした公家のなかには都を離れて地方で武士になる者が出てきました。源平合戦を繰り広げた「源氏」と「平氏」も、もとは臣籍降下を経た公家が武士になり、大規模な武士団を組織した一族です。

位階と官職

公家社会の身分格差

公家達の地位は「位階」(いかい)と「官職」(かんしょく)によって格付けされていました。位階とは昇進のランクに相当するもので、「正五位」(しょうごい)、「従五位」(じゅごい)などと表記します。数字が小さいほどランクが上がり、また「正」と「従」では「正」の方が上で、最高ランクは「正一位」(しょういちい)です。また、官職は朝廷における役職のことで、位階のレベルによって就ける官職が決まっていました。

公家と貴族と公卿の違いは?

公家のなかでも位階が五位以上の者を「貴族」、貴族のなかでも三位以上の者を「公卿」(くぎょう)と呼びます。朝廷の幹部クラスである官職、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議には上位階級の公卿が就任しました。このように公家社会には動かしがたい階級制度があり、生まれついた家によって職種も出世の限界も決まっていたのです。

公家はどんな仕事をしていたのか

公家の主(あるじ)は天皇で、その職務は天皇を補佐する事務仕事全般でした。天皇には神事や元号の制定、官位の授与などの重要な仕事があり、公家達はそれぞれの専門性を活かして、必要な文書の起草や、前例の調査をしていたのです。

公家の収入源

公家には位階と官職に応じて土地や使用人、現物支給の布などが与えられましたが、主な収入源は全国に所有していた荘園(しょうえん:農地や領土)からの年貢でした。しかし、平安時代末期に武家が政治の実権を握ると、公家の荘園は武家政権が各地に配置した役人や現地の武士に支配され、収入は激減します。

公家のなかには、武士に略奪されつつあった荘園を回復しようと、京を離れて現地に出向いた者もいました。室町時代の公家「九条政基」(くじょうまさもと)は、摂家の出身で関白にまでなった公卿でしたが、和泉国(いずみのくに:現在の大阪府南西部)に所有していた荘園、日根荘(ひねのしょう)に4年間滞在し、みずから管理に努めたのです。

九条政基が日根荘で過ごした4年間を記録した「政基公旅引付」(まさもとこうたびひきつけ)は、当時の村落の日常を知る貴重な史料になっています。

しかし、多くの公家は写本などの内職で臨時収入を得たり、先祖伝来の衣装や調度品を質入れしたりして慎ましく暮らしていたのです。あるいは、和歌、書道、香道などの家元としてサイドビジネスに励んだ公家もいました。

公家が残した文化的功績

文芸や伝統文化を守り伝えた

公家達は多くの文学作品を創作し、守り伝えてきた

公家達は多くの文学作品を創作し、
守り伝えてきた

公家は家ごとの官職を世襲していたので、それぞれの家の実務や技能、文化を次世代に伝える必要がありました。

その内容は楽器や和歌、装束の整え方など多様でしたが、なかでも現代人になじみがあるのは物語や和歌集などの古典文学作品です。

現在、私達が読むことのできる古典文学作品の多くは、公家が代々伝えてきました。

公家が生きた時代の識字率は低く、文学作品を理解して管理できる教養があったのは公家のような上流階層の者達だけでした。また、印刷技術がなかったので、公家達が文学作品を書き写して共有し、継承してきたのです。

文学作品や史料として貴重な公家日記

公家達にとって朝廷の政務や儀式は家業でしたから、後継者のために手順を書き残そうと日記を付けていました。いわば家ごとのマニュアルづくりで、現代のように冠婚葬祭やビジネスのマナー本がなかった時代には価値が高く、詳細で正確な日記は評判が広まり、他家から借用依頼があったほどです。

やがて公家達は公的な記録だけでなく、日常の出来事や私情、紀行文なども日記に綴るようになります。こうして文学作品化した日記は朝廷に仕える女性達に影響を与え、「蜻蛉日記」「紫式部日記」「和泉式部日記」「更級日記」など多くの女流日記が生まれました。

また、公家の日記からは世の中の動向も読み取れます。例えば「織田信長」が本能寺で殺害されたのが1582年(天正10年)6月2日だったことや、この事件を当時の人達がどう受けとめていたのかが公家達の日記から分かりました。このように公家の日記は、文学作品としても、歴史研究の史料としても高い価値を持っているのです。

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