「空誓上人」(くうせいしょうにん)とは、戦国時代から江戸時代初期に活躍した浄土真宗の僧侶で、現在の愛知県安城市に鎮座する「本證寺」(ほんしょうじ)の住職でした。空誓上人が属した本證寺は、三河本願寺派のなかでも大きな勢力を持つ寺院だったことから、三河統一を目指す「徳川家康」と対立。そして1563年(永禄6年)、三河本願寺派と徳川家康はついに「三河一向一揆」を起こします。三河一向一揆は、徳川家康三大危機のひとつにも数えられる大きな争いであり、20歳を過ぎたばかりの徳川家康にとっても大変な試練となりました。三河本願寺派のために戦った空誓上人の生い立ち、三河一向一揆後の動向について辿っていきましょう。
「空誓上人」は、浄土真宗本願寺派、中興の祖である「蓮如」(れんにょ)の孫に当たる人物です。生没年は不明。
1561年(永禄4年)に、本證寺の9代目住職だった「玄海」(げんかい)が加賀国(現在の石川県南部)の一向一揆にて命を落としてしまいます。そこで空誓上人に白羽の矢が立ち、本願寺11代目宗主「顕如」(けんにょ)の猶子(ゆうし:親族の子を自身の子として迎えること)として本證寺の住職を継ぐこととなりました。
寺院側にとっても、「一家衆」(いっけしゅう:本願寺派の血縁者)が住職となるのは、本願寺教団内の立場を上昇させることができるため大きな意味を持ったのです。現にこの当時、本證寺を含め「三河三ヵ寺」と称される「勝鬘寺」(しょうまんじ:愛知県岡崎市)と「上宮寺」(じょうぐうじ:愛知県岡崎市)では、一家衆が住職を務めていました。
しかし、勝鬘寺と上宮寺の住職は一家衆のなかでも遠縁だったため、蓮如の孫でさらに本願寺の現宗主・顕如の猶子である空誓上人は三河本願寺派のなかでも最上位者となります。
空誓上人が本證寺住職を継いでから2年後の1563年(永禄6年)に、三河本願寺派による「三河一向一揆」が勃発。こうして空誓上人は、三河一向一揆における僧侶側の中心的存在となっていきます。
一向一揆とは、一向宗と称された浄土真宗本願寺派の門徒によって起きた武装蜂起のことです。そのため組織のなかには僧侶をはじめ、武士、農民、商人など様々な身分の者がいました。
1488年(長享2年)、加賀国の守護大名「富樫政親」(とがしまさちか)を倒したことで、一向一揆の存在は世に知られるようになります。本願寺の本拠地には摂津国大坂、伊勢長島、三河矢作川流域などが知られ、どれも河川が近いことから本願寺勢力は治水技術と物流に長けていたと推測されているのです。
一向一揆と戦国武将の戦いは、1506年(永正3年)の越前国(現在の福井県北東部)朝倉氏の「九頭竜川の戦い」、1572年(元亀3年)「上杉謙信」との「加賀・越前一向一揆」。そして史上最も有名な「織田信長」による「越前・長島一向一揆」(石山合戦)など枚挙にいとまがありません。
一向一揆は信仰に対する抗議という面もありますが、本願寺勢力の持つ既得権益を守るための政治闘争の面が大きかったと言います。
三河国は鎌倉時代、矢作川流域に浄土真宗の布教が進み、1468年(応仁2年)に蓮如によって「本宗寺」(愛知県岡崎市)が創建されました。
その後、本願寺派の布教が拡大化し、戦国時代には本證寺や勝鬘寺、上宮寺といった寺院が権勢を誇るようになります。
三河一向一揆が起こったのは、徳川家康が「桶狭間の戦い」を境に今川氏から独立し三河国統一も間近だった1563年(永禄6年)9月のこと。
徳川家康は、三河国統一を目指し合戦を繰り広げ、兵糧が常に不足している状態でした。徳川家創業時代を記した書物「松平記」によれば一揆の原因は、徳川家康の配下「菅沼藤十郎」(すがぬまとうじゅうろう)が上宮寺の籾(もみ:脱穀前の米)を奪ったことだとしています。
兵糧不足を補うためでしたが、籾を盗るのは「守護使不入」(しゅごしふにゅう)に当たるとして上宮寺側は菅沼藤十郎を断罪。
守護使不入とは、三河国の本宗寺と本證寺、勝鬘寺、上宮寺に与えられた特権であり、役人の徴税や罪人を捕まえるために寺のなかに入ることを禁止するものでした。
さらに菅沼藤十郎は徳川家康の重臣「酒井政家」(さかいまさいえ)に上宮寺とのいさかいを相談。酒井政家は話し合いをしようと、上宮寺のさらに格上となる本證寺へ使者を送りますが、本證寺はその使者を斬ってしまいます。
そして事件を聞いた徳川家康は、使者を斬った人物を捕まえるため守護使不入の権利を破って、本證寺に配下を送りました。こうして三河本願寺派と徳川家康は対立を深めていくこととなるのです。
ただ、三河国統一の目標を持っていた徳川家康は、大きな勢力を持つ三河本願寺派を倒さなくてはならなかったため、あえて対立の形を取ったとする見方もあります。
三河一向一揆は、1563年(永禄6年)9月に起き、翌年1564年(永禄7年)2月に終息。徳川家康は、三河一向一揆を扇動した三河三ヵ寺の本證寺、勝鬘寺、上宮寺の僧らに、改宗すれば寺院を存続させると伝えました。しかし寺院側は当然ながら改宗を拒否したため、徳川家康は三河三ヵ寺の僧達を三河国から追放します。
本證寺の住職だった空誓上人は、追放処分を受けて賀茂郡菅和田(現在の愛知県豊田市新盛町)に逃れました。勝鬘寺と上宮寺の住職は信濃国(現在の長野県)に逃れたと伝わります。
本願寺の門徒が徳川家康からようやく赦免(しゃめん:罪を許すこと)されたのは、1583年(天正11年)のことで、三河一向一揆から19年もの歳月が経っていました。
すでに織田信長は「本能寺の変」で没し、織田家の後継問題から「豊臣秀吉」と徳川家康の対立が深まっていた頃です。
しかし本願寺門徒は赦免されても、三河一向一揆の中心寺院だった本證寺、勝鬘寺、上宮寺などは赦免されることはありませんでした。それだけ徳川家康の警戒が深かったと言えます。
ついに赦免を待てなかった空誓上人は、徳川家康との仲介に立っていた「本多重次」(ほんだしげつぐ)との手紙の内容を徳川家康から許しを得たと偽造。空誓上人は無断で三河国に戻り、寺院まで建立。再び、空誓上人は徳川家康から罰されることとなるのです。
空誓上人による文書偽造として事件は決着していますが、空誓上人にその意思があったかどうかは不明とされています。
19年間赦免を待つことができたのに、急に文書を偽造するのも妙なこと。豊臣秀吉との対立によって起こる1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」の前後、徳川家康を撹乱するため、その意向を曲げて伝える反徳川家康側の動きがあったことなどが指摘されています。
小牧・長久手の戦いが終わった翌年の1585年(天正13年)10月、三河三ヵ寺の本證寺、勝鬘寺、上宮寺もようやく、徳川家康から赦免されることとなりました。同時に諸役免除(徴税や軍役の免除)の特権も回復し、空誓上人は本證寺の復興を果たしたのです。
その後、空誓上人は徳川家と関係を密にするようになり、徳川家康が江戸に転封するときも同地に浄土真宗の寺院「徳本寺」(現在の東京都台東区)を置いています。
空誓上人が晩年になる頃には、徳川家康から初代尾張藩藩主となる「徳川義直」(とくがわよしなお:徳川家康の九男)を助けるよう直々に依頼。このことから歴代の本證寺住職は、住職が代替わりする際に尾張藩主、さらには将軍への謁見が許されていました。三河一向一揆で争った本證寺と徳川家でしたが、江戸時代以降は親密な関係を保っていくこととなります。