「弘法大師」(こうぼうだいし)の諡(おくりな:没後に与えられる尊号)で知られる「空海」(くうかい)は、平安時代初期に活躍した僧です。空海は唐(とう:7~10世紀の中国王朝)で広まっていた新しい仏教を学ぶために、「最澄」(さいちょう:日本に天台宗[てんだいしゅう]を広めた僧)とともに唐へ渡って修行し、帰国後に「真言宗」(しんごんしゅう)を興しました。空海ゆかりの霊場は「四国八十八ヵ所」をはじめ全国に存在し、現在も多くの人が巡礼しています。仏教以外にも、様々な分野で才能を発揮した空海は、社会事業でも後世につながる数々の実績を残し、また書道の名人としても著名です。
空海は774年(宝亀5年)に讃岐(さぬき:現在の香川県)で誕生。幼名を「真魚」(まお)と言いました。真魚は、12歳で地方役人を養成する学校に入学しますが、あまりに優秀であったために15歳で「平城京」(へいじょうきょう:奈良県奈良市)へ出て、大学寮(官吏になるための教育機関)に入学。歴史・詩文・算術・法律など幅広い勉強に励みました。
そのなかで「密教」(みっきょう:秘密の教義を伝承で伝える宗教)の「求聞持法」(ぐもんじほう:記憶力の増進を図る修行)に出会ったことから、仏教に興味を持つようになったと言われます。793年(延暦12年)、大学を中退して19歳で出家。人里離れた山林で修行を積みました。
空海は804年(延暦23年)に長期留学のため、遣唐使の一員として唐へ出航。ところが空海の乗った船は、途中で嵐に遭い中国南東部に漂着し、海賊の疑いをかけられてしまいました。このとき、中国語に優れていた空海が、責任者に代わって嘆願書を代筆。その完璧な文章と達筆さで疑いが晴れ、一行は唐入りが許されたのです。
空海は、唐の都「長安」(ちょうあん)へ入り、密教の理解に必要なサンスクリット語(古代インド語)や最新学問を修得。その後、長安の「青龍寺」(せいりゅうじ)へ密教の高僧「恵果」(けいか)を訪ねました。恵果は、空海をひと目見て「あなたが来ることは分かっていた」と大歓迎し、密教の奥義を伝授。
自国の弟子達を差し置いて、異国からやってきた空海を真言密教の後継者にする儀式「灌頂」(かんじょう)を行います。さらに空海に日本へ持ち帰らせるために、大勢の弟子達に経典を写させたり、「曼荼羅」(まんだら:仏の教えを示した図絵)や仏具を作らせたりしました。
一連の作業が終わったことを見届けたのち、恵果は他界。出会いからわずか半年後のことでした。「私の持っている物はすべて授けた。早く日本に帰って国の平安と人々の幸福を祈りなさい」という恵果の遺言に従い、空海は20年の予定だった留学を2年で切り上げ、806年(大同元年)に帰国することになったのです。
帰国後、空海が開いた真言宗とは、「草木国土悉皆成仏」(草木や土のような物でも仏になれる)の思想がもとになっており、仏も人も本質は同じで、人がもともと備えている仏性を磨けば、現世でも仏であるという教えです。真言宗は朝廷内でも支持を集め、空海は52代「嵯峨天皇」(さがてんのう)から、大いに重用されました。
遣唐使として唐から帰国する直前、空海は法具「三鈷杵」(さんこしょ)を日本の方角に向かって投げ、「私より先に帰って、教えを広めるのに良い土地へ導いてほしい」と祈願。帰国から10年後の816年(弘仁7年)、ついに修行の場を探す旅へ出ます。そして、「高野山」(こうやさん:和歌山県伊都郡)に入った空海は、ひとりの猟師と出会いました。唐から投げた三鈷杵を探していると伝えると、猟師は2匹の犬を道案内に走らせます。犬に導かれるまま進むと、松の枝にかかった三鈷杵を発見。空海はこの場所こそふさわしいとして、「金剛峰寺」(こんごうぶじ:和歌山県伊都郡)を建立。
高野山は山全体が金剛峰寺の境内とされ、現在では子院(しいん)も含めて117もの寺が存在しています。823年(弘仁14年)、空海は嵯峨天皇から京都の「東寺」(とうじ)も託され、「教王護国寺」(きょうおうごこくじ:京都府京都市)と名称を改めて、他宗にも開かれた真言密教の道場としました。すべてを仏教の布教に捧げた空海は、835年(承和2年)、弟子達が読経するなか、高野山で亡くなりました。
空海の故郷・讃岐にある「満濃池」(まんのういけ:香川県仲多度郡)は、洪水でたびたび堤防が決壊し人々が苦しんでいました。821年(弘仁12年)、朝廷は仏教の他にも幅広い知識や技術を持つ空海に、満濃池の修繕工事を指揮するよう依頼。
空海は、水圧に耐えるアーチ型堤防などを築き、わずか3ヵ月で工事を完了させました。当時の最新技術で工事が進められる期間中、空海は堤防の上の丘に座り、毎日「護摩」(ごま)を焚いて仏の加護を祈りました。
828年(天長5年)、空海は京都に、庶民の教育を目的とした日本初の私立学校「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を設立。当時の教育は、主に貴族・官僚子弟などが対象だったため、身分を問わず誰にでも門戸を開く学校は画期的でした。
「綜芸」とは様々な学芸をまとめるという意味で、儒教・仏教・道教など、あらゆる思想・学芸を学ぶ場。空海の博識多才ぶりがうかがえます。綜芸種智院は、空海の死後10年ほどで廃校となりましたが、後世になって「高野山大学」(こうやさんだいがく:和歌山県伊都郡)などがその志を受け継いでいます。
書道にも優れていた空海は、嵯峨天皇、「橘逸勢」(たちばなのはやなり:平安時代初期の官僚・書道家)とともに「三筆」(さんぴつ:3人の偉大な書道家)のひとりに数えられています。
空海が「平安京」(へいあんきょう:京都府京都市)の大内裏(だいだいり:天皇の居住場所)の「応天門」(おうてんもん)の扁額を書き終えて門に掲げたときに、「応」の文字の点を書き忘れたことに気付きます。やむなく筆を放り投げて点を打ったという逸話から、名人や達人でもときには失敗することがあるという「弘法も筆のあやまり」という有名な言葉が誕生しました。また「弘法筆を選ばず」は、本当の名人であれば道具の善し悪しは関係ないという意味に使われます。
空海は官僧(かんそう:天皇から認められた公式の僧)として最高位「大僧都」(だいそうず)に任命されていましたが、病にかかってしまったため高野山に籠り、著作に没頭したり坐禅をしたりして晩年を過ごしました。
835年(承和2年)のある日、弟子達に「3月21日の寅の刻(とらのこく:午前4時頃)に山へ帰る。私が世を去っても嘆き悲しまず信仰を続けなさい」と遺言。その言葉通りの日時に、空海は入滅(にゅうめつ:位の高い僧が亡くなること)しました。50日後に空海の遺体は高野山の「奥之院」に移され、空海は現在もこの場所で修業を続けていると信じられています。
なお、弘法大師の諡(おくりな)を受けたのは、入滅から86年後の921年(延喜21年)のことでした。