鎌倉時代、鎌倉にある5つの寺院に「鎌倉五山」(かまくらござん)という「寺格」(じかく:朝廷や幕府から与えられた等級)が鎌倉幕府より与えられました。これは「禅宗」(ぜんしゅう:座禅による修行を重視する仏教の一派)の寺院を重視することで旧い寺社勢力に対抗させようとする鎌倉幕府の戦略です。そして鎌倉幕府が滅んで政治の中心が京都に戻ると、同様に京都の5つの禅宗寺院が選ばれ、手厚い保護を受けることになりました。これらの5つの寺院を「京都五山」(きょうとござん)と呼びます。
1334年(建武元年)、鎌倉幕府を滅ぼした「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)によって「建武の新政」(けんむのしんせい)が始まると、京都にも新たに五山が導入されます。
そして1341年(暦応4年)、「足利直義」(あしかがただよし:室町幕府初代将軍「足利尊氏」[あしかがたかうじ]の弟)により、京都五山は「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)、「相国寺」(しょうこくじ:京都市上京区)、「建仁寺」(けんにんじ:京都市東山区)、「東福寺」(とうふくじ:京都市東山区)、「万寿寺」(まんじゅじ:京都市東山区)と確定。
なお、「南禅寺」(なんぜんじ:京都市左京区)は「五山之上」(ござんしじょう)、つまり五山の上の別格です。それ以前には「大徳寺」(だいとくじ:京都市北区)が五山に入っていた時期もありました。
室町幕府は京都五山に対して幕府の事務の代行や、上納金(じょうのうきん:献金のこと)を求めました。その代わり、「荘園」(しょうえん:寺院や有力貴族の私有地)に対して「不入権」(ふにゅうけん:幕府から遣わされた徴税のための使者を立ち入らせない権利)や、労働の免除など大きな特権を与えて優遇しました。
幕府が五山を優遇した理由は、当時大きな勢力を持っていた「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市。平安時代初期、「最澄」[さいちょう]によって開かれた寺院)や「興福寺」(こうふくじ:奈良県奈良市。奈良時代に建立された、藤原氏の氏寺)といった旧勢力派への対抗策として、新興勢力である禅宗の京都五山を味方に付けようとしたことでした。
その後、幕府の後ろ盾を得た五山禅寺は、対中貿易を通じてさらに勢力を拡大していきました。
京都五山第1位。創建は1339年(暦応2年/延元4年)。開山は「夢窓疎石」(むそうそせき)、開基は「足利尊氏」。宿敵であった後醍醐天皇を弔うために足利尊氏によって創建されました。
最初は創建の年号から「暦応寺」(りゃくおうじ)と名付けられましたが、同じ由来の寺号を持つ延暦寺などから猛反対され、寺号を変更。創建時の伽藍(がらん:寺の建物の総称)は南禅寺をも凌ぐ規模であったと伝えられます。
しかし8度の火災に見舞われ、今はほとんどの伽藍は存在しません。現存する最古の建物は「勅使門」(ちょくしもん:朝廷からの使者を迎える門)で、慶長年間(1596~1615年)の建立と推定されています。
京都五山第2位。創建は1382年(永徳2年/弘和2年)。開山は「夢窓疎石」(むそうそせき)、開基は「足利義満」(あしかがよしみつ)。室町幕府3代将軍の足利義満が将軍家の菩提寺として建立した寺院。完成後すぐに焼失したものの、1399年(応永6年)に巨大な七重塔を持つ巨大な寺院として再建されました。
内部に設けられた将軍の屋敷であった「蔭凉軒」(いんりょうけん)には「蔭凉職」(いんりょうしき:僧録司と幕府の連絡役)と呼ばれる僧が常駐し、将軍の側近として政治・文化に大きな影響力を持っていました。
このように室町幕府と深い関係を持つ寺院であったため、幕府をめぐる混乱に巻き込まれることも多く、応仁の乱における主戦場のひとつにもなりました。
京都五山第3位。創建は1202年(建仁2年)。開山は「明庵栄西」(みょうあんえいさい)、開基は「源頼家」(みなもとのよりいえ)。
明庵栄西は宋(そう:中国の王朝)で臨済宗(りんざいしゅう)を学び、日本に伝えた人物。開山時は禅宗を敵視する延暦寺に遠慮して、真言宗・天台宗・禅宗の三宗派の寺院とされました。
しかし1265年(文永2年)、宋から来日した「蘭渓道隆」(らんけいどうりゅう)が住持(じゅうじ:住職のこと)になってから禅宗寺院としての性格を強め、室町時代には足利将軍家の保護を受けて栄えました。
勅使門は柱や扉に矢の痕があることから「矢立門」(やたてもん)と呼ばれ、六波羅(ろくはら)にあった平氏の館から移築した物という伝説があります。
京都五山第4位。創建は1236年(嘉禎2年)。開山は「聖一国師」(しょういちこくし)、開基は「九条道家」(くじょうみちいえ)。
もともと東福寺と同じ、藤原氏の氏寺があった場所に建てられた寺院です。奈良を代表するふたつの大寺院、「東大寺」(とうだいじ)と興福寺から1文字ずつ取ってこの名が付けられました。
南北朝時代以降、1881年(明治14年)に火災で仏殿を消失するまで大きな火災に遭っていないため、国宝である三門や方丈など、他の五山寺院に比べて中世の建築物が数多く残っています。
本堂から開山堂へ通じる「通天橋」(つうてんきょう)は紅葉の名所として知られ、現在も多くの人が訪れます。
京都五山第5位。創建は1257~1259年(正嘉年間)。開山は「十地上人」(じっちしょうにん)。創建の地は現在の京都市下京区で、付近には「万寿寺町」の名が残っています。
1434年(永享6年)の「洛中大火」(らくちゅうたいか:京都市内を焼き尽くした大火事)や1459年(長禄3年)の土一揆(どいっき:幕府に対する農民の反乱)などによって衰退し、現在の場所に寺院を移しました。現在は非公開のため、拝観はできません。