江戸時代の重要用語

松平容保 
/ホームメイト

「松平容保」(まつだいらかたもり)は、幕末の会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)藩主です。28歳のとき、混乱の極みにあった京都の治安維持を担う「京都守護職」(きょうとしゅごしょく)に就任。「新撰組」(しんせんぐみ)を起用して過激派のテロを何度も未然に防ぎました。しかし「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府が朝廷に政権を返還すること)のあとは徳川家と運命をともにし、明治政府軍に対して奮戦しましたが、最後は故郷・会津で明治政府軍に降伏。晩年は、「徳川家康」(とくがわいえやす)を祀る「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)の宮司として生涯を終えました。

江戸時代の重要用語

松平容保 
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「松平容保」(まつだいらかたもり)は、幕末の会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)藩主です。28歳のとき、混乱の極みにあった京都の治安維持を担う「京都守護職」(きょうとしゅごしょく)に就任。「新撰組」(しんせんぐみ)を起用して過激派のテロを何度も未然に防ぎました。しかし「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府が朝廷に政権を返還すること)のあとは徳川家と運命をともにし、明治政府軍に対して奮戦しましたが、最後は故郷・会津で明治政府軍に降伏。晩年は、「徳川家康」(とくがわいえやす)を祀る「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)の宮司として生涯を終えました。

京都守護職として

藩祖の志を継ぐ

松平容保

松平容保

江戸幕府第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の弟「保科正之」(ほしなまさゆき)を藩祖とする会津藩は、江戸時代を通じて佐幕(さばく:江戸幕府を支持すること)の姿勢を貫いた藩。

その背後にあったのは、保科正之が家訓として残した「会津藩たるは江戸幕府将軍家を守護すべき」という教えでした。

そして、会津藩9代藩主・松平容保も藩祖の遺訓を十分に受け継いでいたのです。その証拠が、1862年(文久2年)、京都の治安維持を担う「京都守護職」(きょうとしゅごしょく)に任じられたとき、松平容保が承諾したこと。

と言うのも、19世紀末の京都は「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を中心とする国づくりを行い、外国勢力を打ち払うこと)を主張する人々が、反対派に対してテロを行うなど、極めて危険な場所でした。幼い頃から病気がちで、決して武闘派ではなかった松平容保が、火中の栗を拾うようなこの大役を引き受けたのは、ひとえに藩祖の遺訓を守るためであったと言われます。

尊王攘夷派を粛清

京都守護職となった松平容保は、会津藩士1,000騎を率いて上洛(じょうらく:京都にのぼること)。「金戒光明寺」(こんかいこうみょうじ:京都府京都市)を本陣とします。

この地で松平容保は、江戸幕府の基本方針である「公武合体」(こうぶがったい:江戸幕府と朝廷が一緒になり、より強い政治体制を築くという方針)に基づき、長州藩(現在の山口県萩市)藩士をはじめとする尊王攘夷派と接触。

しかし彼らの本音が倒幕にあることを知ると、時を同じくして京都で結成された新撰組を配下に置き、尊王攘夷派の弾圧に乗り出します。1864年(元治元年)6月には、配下の新撰組によって、池田屋でクーデターの計画を練っていた7名を殺害(池田屋事件:いけだやじけん)。

他にも新撰組の手で尊王攘夷派の志士が数多く殺害されました。なかでも最も襲われたのが、過激な尊王攘夷思想を持つ長州藩士。池田屋事件の翌月、長州藩士らが松平容保への報復のために挙兵。3方向から「京都御所」(きょうとごしょ:京都府京都市)に攻撃をしかけますが、会津藩士や新撰組、薩摩藩(現在の鹿児島鹿児島市)藩士などが退けています(禁門の変:きんもんのへん)。

将軍を守護する会津公

公武合体構想の消滅

孝明天皇

孝明天皇

松平容保に絶大な信頼を寄せていたのが、第121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)です。

孝明天皇は、もともと強硬な攘夷派でしたが長州藩、一部貴族の過激な活動に嫌気が差し、誠実な松平容保を頼るようになったと言われます。

ところがその頃、公武合体を支持していたはずの薩摩藩が長州藩と密かに同盟を組み、一気に倒幕勢力に仲間入り。

さらに、孝明天皇の妹「和宮」(かずのみや)を正妻とし公武合体を推進してきた、江戸幕府第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が1866年(慶応2年)7月に死去。

翌1867年(慶応3年)1月には孝明天皇まで崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)します。公武合体を推進してきた、江戸幕府将軍と天皇が2人ともいなくなったことで、公武合体構想は消滅。こうして、いよいよ時代は薩摩藩・長州藩による倒幕へと向かって動き始めます。

江戸幕府将軍とともに江戸へ

1867年(慶応3年)、江戸幕府第15代将軍に就任した「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、徳川家の単独政権が限界だと判断し、同年、政権を朝廷へ返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)を敢行。

しかし、薩摩藩・長州藩が中心に打ち立てた明治政府の最終目的は討幕ですから、それで収まるはずがありません。翌1868年(明治元年)には「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)を発し、旧幕領(ばくりょう:旧江戸幕府の領地・財産)を差し出すように命じます。

これは明らかに旧江戸幕府への挑発でした。京都守護を解かれた松平容保は、徳川慶喜とともに「大坂城」(おおさかじょう:大阪府大阪市)に入り、戦の準備を開始。その直後、京都郊外で旧江戸幕府軍と明治政府軍が交戦します(鳥羽・伏見の戦い)。

こうして「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まりました。このとき、明治政府軍が「錦の御旗」(にしきのみはた:天皇の軍隊である証し)を掲げたため、徳川慶喜は「朝敵」(ちょうてき:朝廷に反逆する極悪人)となることを恐れ、夜中に軍艦で江戸へ逃げ出してしまいます。旧江戸幕府将軍の逃亡に、松平容保も従わざるを得ませんでした。

長州藩との死闘は続く

松平容保だけは許さない

江戸へ戻った松平容保は、前線から離れたことを会津藩士らに詫び、自分は会津藩へ戻って謹慎することを告げます。しかし、京都で多くの仲間を殺された長州藩は、会津藩主・松平容保を絶対に許しませんでした。明治政府軍は会津藩を朝敵と呼び、会津藩に向けて北上。

松平容保は、仙台藩(せんだいはん:現在の宮城県仙台市)・米沢藩(よねざわはん:現在の山形県米沢市)・庄内藩(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)など近隣の藩を通じて、明治政府に降伏を嘆願しましたが、明治政府は拒否。

それどころか、諸藩に対して会津藩を討てという命令を出すほど。見かねた陸奥国(むつのくに:現在の東北地方北西部)、出羽国(でわのくに:現在の山形県、秋田県)、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の近隣34藩は、1868年(慶応4年)5月に「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)を結成。

明治政府軍を迎え撃つための準備を開始します。すると、旧江戸幕府軍の脱走兵や、全国の佐幕派志士が続々と会津藩へ集結。こうして、期せずして松平容保の会津藩は明治政府に対抗する中心勢力になってしまったのです。

会津戦争の終わり

会津若松城

会津若松城

同年8月21日に会津藩と明治政府軍の戦闘が始まりました。このとき、藩士だけでなく会津藩に住む多くの人々が、松平容保のために武器を取って戦っています。

藩士の子息らが志願兵として立ち上がった「白虎隊」(びゃっこたい)をはじめ、多くの婦女子も参戦しました。

明治政府軍は大砲100門を並べ、一昼夜にわたって「会津若松城」(あいづわかまつじょう:福島県会津若松市)を砲撃。会津藩は1ヵ月にわたってよく持ちこたえましたが、戦死者はすでに2,500名を超え、これ以上の戦いは無理と見た松平容保は、9月22日に開城して降伏しました。

最後の頼みとしていた松平容保が降伏したという知らせを聞き、東北諸藩も明治政府に降伏し、東北における戊辰戦争は終結。松平容保は和歌山藩に預けられたあと10年にわたって各地を転々とし、1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司に命じられました。そして晩年は会津藩・藩祖の遺訓通り、江戸幕府初代将軍・徳川家康の御霊を守りながら過ごしたのです。

京都守護職上屋敷跡地に咲いた桜

松平容保が、京都で過ごした京都守護職上屋敷の跡地には、のちに京都府庁が建てられ、現在では旧府庁として保管されています。2010年(平成22年)、旧府庁の中庭にある1本の桜が、大島桜と山桜の両方の特徴を持つ極めて珍しい品種であることが判明。

花弁が長く、一文字状に咲くこの桜は、全国的に有名な造園家「佐野藤右衛門」(さのとうえもん)氏によって「容保桜」(かたもりざくら)と命名され、京都の治安維持に努めた松平容保の名を今に伝えています 。

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